石原慎太郎「下品だからこそ大衆の支持を強く集めるのだ」

最近BSで偶然見た、おそらく地上波の再放送番組であろう故美空ひばりの特番に都知事時代の石原慎太郎が出ていて、美空ひばりと田中角栄を自身が生涯で出会った最高の人物の二人として称賛しつつ、うろ覚えだが「二人とも御世辞にも上品とはいえない。言い方は悪いが下品だ。でも、だからこそ大衆の支持を強く集めるんですよ」とかなんとか概ねそういった趣旨のことをにやりと笑いながら語っていて、妙に心に残った。(家族が見ていたものを偶然見ただけなので番組名や元番組の放送時期など不明、発言内容も不正確です。)

一つには、どうにもその論評が、自身も含んでいることを言外に表そうとしている、というか二人の論評に見せかけて石原慎太郎自身の自己顕示的な側面の方が強いと感じた――自身をその二人と並ばせようとする自己顕示欲と同時に、ある種のエクスキューズのようでもあった――からであり、もう一つには、政治家石原慎太郎の、賛否両論を巻き起こす、特に批判の方が圧倒的に多く見える言動はどこまで意識的に行っているのだろうか、という、僕がずっと内心でもやもやとさせられていることを再び呼び覚ましたからだ。

彼ほど多くの人が憎み、罵倒している政治家というのもなかなかいないが、その一方で彼ほど強力に政界を生き抜いている政治家というのも稀有だ。なんだかんだで中央政界では大臣までやり総裁選を争い、都知事四期目途中まで務め、今また中央に復帰して政党の代表に収まっている。差別的で偏見に満ちている発言を繰り返す一方で、決して自身の地位を失うほどの振る舞いはせず、致命的な失敗をしない。強い組織力と地盤を持っているというのはあるだろうが、天性のものか、意図的なものか、ギリギリのところを、時に一歩も二歩も踏み越えているように見えて、その実上手く渡っていく。

最近十九世紀末オーストリアの二人の政治家のことを書いた(参考「シェーネラーとルエーガー~ヒトラーが範とした二人の反ユダヤ主義者」)が、その言動は民族主義的・排外主義的という点で確かにシェーネラー的でありながら、シェーネラーほど後先考えず自滅的ではないし、かといってルエーガーほど全てに計算高く振る舞っているわけでもない。そんな歴史上の人物への類推はむしろ見誤る元にもなるのだと思うので、とりあえず歴史の類推からは離れて石原本人を見ることに戻るとして、石原慎太郎の「政治的・社会的な正しくなさ」のバランス感覚がどのようにして保たれているのかは、やはり同時代人として非常に気になる。

一切考えなしにやっているのなら天才とまでは言わずとも傑物か、あるいは異常なまでの幸運の持ち主だと思うのだが、どこかで、そのような天賦だとか幸運だとかの要素だけで片付けたくない、そこになんらかの意図に基づく行動を見出したい自分がいて、葛藤がある。「愚かさ」として映る何かを安易に批判して終わりにするのではなく、その「愚か」と自身も含めて多くの人々が感じさせられている何かを生み出している要因やプロセスへの興味の方がどうにも強くて、石原慎太郎が何か発言したときに湧き上がる批判の波からもついつい距離を置いてしまいがちだ。

現代ポピュリズムの特徴が「敵作りの政治」であることは多くの政治学者が指摘するところ(参考「「ポピュリズムを考える―民主主義への再入門」吉田 徹 著」)だが、社会的に”下品”として振る舞うことで形作られるアイコンが、どのように人々の支持を集めるのか、そのプロセスはどこまで意図的に作られ、どこまでが政治家個人の天性の才能に基づくのか、改めて考えさせられているのだが、どうにもよくわからなくてもやもやしている。これは深淵を覗きこんでいる行為でしかなく、もしかすると何ら明確な解答を見出すことは叶わぬ疑問なのだろうか。ここ3~4年ぐらいになるか、石原慎太郎に限らず、現代の政治家や著名人たちの、特に政治的・社会的に正しくないとされる発言、特定の人々の怒りを呼び覚ます発言が、むしろその人物の支持を集め、力づけていくプロセスを知りたくて、気付くと歴史上の、特に憎悪にエンパワーされた人物たちに魅せられて、そういう人物のことばかり調べている。歴史上の出来事だけでなく同時代の事象を、自分の心や感情さえも突き放して観察する目が欲しい。

ちなみに、最近ブログ移転したばかりなので全てではないですが、人物伝タグに少しずつそういう人物たちについての記事を整理しつつあります。あと、石原慎太郎の都政の総括については佐々木信夫著「都知事―権力と都政」をまとめるかたちで2011年4月時点ですが「「都知事―権力と都政」より、石原都政三期十二年を振り返る」で記事にしています。

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