「織田信長 (人物叢書)」池上 裕子 著

吉川弘文館の人物叢書シリーズというと、何冊も読んだという歴史ファンはとても多いのではないだろうか。人物伝のスタンダードとして名高いこのシリーズに満を持して織田信長が登場していたので遅ればせながら読んだ。

彼の事跡や生涯についてはまぁよく知られている通りで、本書でも手堅く定説が記述されている。著者のスタンスとしては『信長を英雄視しない』とするもので、その生涯を辿るにあたって、「天下」という言葉の意味するものの変化に注目している。

戦国時代、「天下」は必ずしも日本を意味していなかった。信長自身、「天下」を日本の意味で使ったことは無いし、信長が掲げた「天下布武」「天下静謐」という言葉における「天下」も日本を指していない。中世末期の「天下」の使われ方は、『天下が京都あるいは京都と五畿内をさす場合将軍をさす場合、「将軍が握っている幕府政治」あるいは「将軍というものに象徴される秩序」をさす場合などがある』(P57)とされる。

信長の「天下」も、最初の「京都あるいは京都と五畿内」のことであり、将軍足利義昭を奉じて畿内を武力制圧(「天下府武」)し畿内の秩序安定化(「天下静謐」)を実現するという意味だ。「天下」としての畿内の秩序確立と「天下」の周辺諸国に対する分国拡大戦争の両輪が信長の方針であった。少なくとも天正三年(1575)に右近衛大将に任官するまでは信長の言う「天下」とは以下のようなものだったとされている。

『京都を中心とし、その周辺域を含み、天皇を身分体系の頂点としてつらなってきた公家・寺社等がつくり出してきた秩序の上に、みずからも加わり、ある種の改変を加えつつ、みずからが静謐を保証すべき、みずからの掌握下にある秩序である。ある場合にはその空間である。そしてまた、ある場合にはそのためにみずからが「天下を申付く」行為=政治である。』(P140)

「ある種の改変」は自らが報じて秩序の中心に据えた足利義昭との確執から放逐(天正二年(1574))によって生じた事態による改変だが、その改変のための新しい「天下」の模索がやがて信長の「天下」の意味を大きく変えていくことになる。翌天正四年から築かれ始める安土城は信長を頂点とし、崇拝対象とした新たな秩序観を反映した構造で、この間に「天下」の観念は信長家中で大きく変化していった。

最大の転機は天正八年(1580)の本願寺の降伏で、同年、柴田勝家が越中の国衆に対して「天下一統」という言葉を使っている。この「天下一統」の「天下」は文字通り日本全国を指す「天下」で『ここに、天下は現実政治の場面において日本全国の意をももつ語に転換した姿を現し、信長の「天下一統」が展望されるに至った』(P183)という。

「天下一統」が指すのは、著者によれば乱世を統一して平和をもたらすといったものでもなく、武士・領主階級の統合再編というものでもなく、織田家の分国拡大の戦争で、『各地の地域権力上層部や国人を基本的に滅ぼし、中小武士を残して、みずからに絶対服従する者のみを自己のもとに編成していく戦争』(P278)であるとされる。

一つには一門と尾張美濃出身の譜代家臣の重用がある。実力主義で能力ある者を身分にかかわらず次々登用したイメージがあるが、一郡以上の領域支配者に限れば、一門と尾張美濃時代からの譜代家臣でほぼ占められている。具体的には、近江出身だが天文年間の臣従で譜代扱いの滝川一益と寝返りの恩賞として本領安堵された木曽義昌・穴山梅雪を特例として除けば、明智光秀・細川藤孝・松永久秀・筒井順慶・荒木村重のみ。個人的には結構多いという印象ではあるのだが、大半が裏切っているのが面白い所。明智については周知の通りだが、松永・荒木ともにかなり信長を苦しめている。

一門・譜代重用は信長の領国支配体制と大きく関係がある。通常戦国大名は家臣に知行を宛がい、安堵する権限を行使する。これに対して信長は領域支配者にその権限の大半を委譲して、彼らが個々に自身の判断で家臣に知行を宛がい、あるいは家臣の採用・編成を行った。旧来の戦国大名と同程度の権限・領域に対するかなり広範囲の支配権を重臣に与えるため、その任用には信頼のおける一門・譜代が選ばれたということだろう。一方で、彼らにはとにかく厳しい結果を要求したが、その成果の判断基準を信長は明示していない。

『信長の戦争は、所領高に対応した軍役量を規定せず戦果を求めるところに特徴がある』(P263)

佐久間信盛親子の追放は知行宛行・家臣編成の不備が大きな理由の一つとされていたが、一国の武将としては非常に大きな権限と責任を託されながら、どれだけの戦果を残せば、信長は満足なのかがわからないなかでただひたすらに戦い、結果を残し続けなければならず、しかも頻繁に異動があり、異動のたびに所領を取り上げられる。まさに、明智・荒木「ブラック戦国大名に仕えているんだが、俺はもう限界かもしれない」というところか。

権限を大幅に委譲し裁量を与えて責任分散する一方で軍事指揮権をほぼ独裁的・専制的に信長に集中させることで絶え間なく続く領土拡大戦争を可能としていたが、その反面、個々の大名級武将は相互の連携が希薄で、裏切りや中枢である信長のアクシデントには非常に弱い体制であった。戦国時代という乱世に非常に特化した体制ともいえるだろうが、全国制覇が先か内部崩壊が先かの非常に綱渡りの権力構造であったことがわかる。

オーソドックスな織田信長研究の成果がコンパクトに収まっているのだが、一方で、描かれる織田信長像は――「英雄視しない」という著者の姿勢は良いと思うのだが――「残虐な君主」以上ではないのが気になる。「英雄としての信長」「残虐な殺戮者としての信長」はいずれも既存のステロタイプであって、そこからさらに先に踏み込んでの現代の信長像をちょっと期待していただけに、信長の殺戮を個人のパーソナリティのみに帰するあたり、とても残念だった。確かに信長の敵に対する処置は残虐な面が少なくないのだが、そもそも戦国武将たちは大なり小なり残虐なので、信長だけが特異なのかどうか。信長個人の性格よりも社会的な要因の方が強いんじゃないだろうか。英雄的な信長観の否定から残虐な君主としての信長を描くのは、やはり少し時代遅れだなぁと思う。(例えば塚本学氏が「生類をめぐる政治――元禄のフォークロア」で提示した徳川綱吉像のような描き方(参考記事「専制君主としての徳川綱吉と生類憐みの令」)を期待するのだけど)

信長には『郷村宛の禁制以外に村や百姓支配に関って発給した文書はほとんどな』(P281)く、『あくまで領主にしか目が注がれていない』(P281)、すなわち『信長にとって戦争と政権運営が家臣・領主との関係において遂行される』(P281)ものであったというが、その信長の視野の狭さをもう少し敷衍させてみれば、例えば、ウチとソトの峻別という観念が「敵」に対する呵責の無さに繋がっている、と考えることができるかもしれない。例として、秀吉とおねの夫婦喧嘩の仲裁エピソードに見られるような温情を、一門・譜代などのウチへの同胞意識と捉えて、その裏返しとしてのソトへの残虐性・排他性というような構図を思いついたりもする。あくまで個人的な思い付きであって歴史的に妥当性があるかどうかは知らないが。

織田信長についての研究の整理・入門としては申し分無いしスタンダードだと思うが、残虐な君主というステロタイプに留まっていて裏面解説にあるような「等身大の姿を描く」とはいえず、現代的な信長像の提示には至っていない、というところかなと思う。まぁ、そのあたりに目をつむれば充実した内容だし、色々発見もあると思うのでおすすめ。

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