クリミア・ウクライナ問題を黒海周辺諸国とリンクして俯瞰するまとめ

ウクライナ情勢が緊迫の度を増してきた。次々と報道される内容に基づくと、ウクライナの親ロ政権が倒れたことでウクライナ内でもロシア系住民が多いクリミア自治共和国の親ロ勢力が軍を掌握、ロシアに支援を要請し、ロシアはロシア系住民の保護を名目に軍の出動を行う方向で議会の承認を得て調整に入っているという。今後どのように事態が展開するか、専門家たちの間でも意見が割れているし、今後の情勢を見守るしかない。

ここでは現状を追いかけることから少し離れて、ウクライナ情勢を理解する背景として黒海周辺諸国に視野を広げてをもう少し歴史的に俯瞰してみる。なぜ俯瞰するのか、その理由としては、ウクライナがEUとロシアとを繋ぐガスパイプラインの中継点であることから周辺諸国への影響が大きいこと、元旧ソ連構成国で反ロシア傾向が強い点で南コーカサス諸国と同様の経緯があること、クリミアの実効支配の行方を理解するのに、反ロ共和国内親ロ独立勢力という構図と同様の事例集として黒海周辺諸国の経緯が参考になること、「独立」の問題はソ連崩壊以後ロシアと周辺諸国の紛争の重要な問題であり、クリミア・ウクライナ問題と周辺諸国の独立問題リンクする可能性があること、などだと思う。以下、黒海周辺諸国全体を一々まとめていった結果15000文字ほどになっているので、適当にお読みください。

目次
1)黒海周辺諸国全体をソチから俯瞰する
2)南コーカサス
→アゼルバイジャンとナゴルノ・カラバフ紛争
→グルジアのアブハジア紛争、南オセチア紛争
→アルメニア
3)北コーカサス
→チェチェン紛争
→ダゲスタン共和国
→イングーシ・北オセチア紛争
→カラチャイ・チェルケス共和国の民族対立
4)モルドヴァ・ウクライナ・クリミア
→モルドヴァ共和国と沿ドニエストル独立問題
→ウクライナ共和国
→クリミア自治共和国
→ウクライナのエネルギー問題
5)ウクライナ情勢は黒海諸国とどうリンクするか

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1)黒海周辺諸国全体をソチから俯瞰する

先日まで華やかに冬季オリンピックが行われたソチを中心にすると、ロシア紛争地図が出来上がる。

blacksea
画像クリックでgoogle Mapへ。

黒海東岸、ソチがあるロシア・クラスノダール地方からカスピ海西岸のロシア連邦ダゲスタン共和国首都マハチカラまで、コーカサス山脈北側にはロシア連邦所属の共和国(西から順にカラチャイ・チェルケスカバルティノ・バルカル北オセチア・アラニアイングーシチェチェンダゲスタン)が並びこれらの地域を北コーカサス、コーカサス山脈南側の三カ国(グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン)を南コーカサスと呼び、両地域を合わせて歴史的にコーカサス地方と呼ばれている。

ソチの西側、黒海に突き出た半島がクリミア半島で十九世紀にはロシアとオスマン帝国との激突の舞台ともなり、第二次大戦中はヤルタで連合国首脳の会談が行われたことでも有名で、現在はウクライナ共和国領クリミア自治共和国となっている。今回の紛争の舞台だ。また、ウクライナとルーマニアの間にあるモルドヴァ共和国も注目する必要がある。

ゴルバチョフによるペレストロイカからソ連邦崩壊までの一連の流れは共産主義イデオロギーの消滅により、これまで抑えつけられていた民族主義の台頭をもたらした。ソ連邦は文字通り民族のモザイクで、ソヴェート社会主義共和国連邦の下にロシア連邦共和国を含む十五の連邦構成共和国があり、さらにその下に自治共和国、自治州、自治管区など民族を単位とした行政単位があった。単一民族単一国家などは幻想に過ぎないから、各行政単位とも民族構成は複雑に入り組んで、ソ連崩壊とともに、民族自決の機運が一気に高まり、各地で独立運動が盛り上がる。独立を果たした共和国もあれば、自治州、自治共和国から昇格したものもあるが、一方で独立を果たせなかったものも多数ある。

南コーカサス三国やウクライナ、モルドヴァは連邦構成共和国として独立を果たしたが、北コーカサス諸国やクリミアなどは独立を果たせなかった。これらがさらに複雑なのは、独立を果たした各共和国もさらに国内に自治共和国を持っていることで、それらはほぼソ連邦崩壊時に独立運動を行いながら果たせなかった共和国で、現在まで悉く独立戦争・内戦の火種となっていることだ。

民族主義とともに複雑にしているのが資源問題で、アゼルバイジャンのバクー油田などこの一帯が天然エネルギー資源の宝庫でもあるし、ウクライナやその北のベラルーシがロシアとヨーロッパとを繋ぐ石油・天然ガスパイプラインの輸送路でもある。ただ、かねてからのウクライナ情勢不安定化でアゼルバイジャンからグルジア、トルコへと石油を輸送するBTEガスパイプラインを欧州へと延長するプロジェクト(ナブッコ・パイプライン)も進んでいるが、開通は2014年末予定(参考)で、何にしろウクライナの情勢は欧州のエネルギー問題と直結しているがゆえに、ウクライナや南コーカサス諸国が親ロか親EUかというのは非常に重要な問題となる。

ソ連から独立を果たした各共和国は基本的に反ロシア的あるいはロシアから距離を置くスタンスを取る一方で、各共和国内の独立運動勢力はロシアが支援するから親ロシア的スタンスとなり、ロシアからの独立を目指す北コーカサス諸国は反ロシア的スタンスとなる。その関係に軍事政策や資源問題、民族問題と宗教問題が複雑に絡み合って、紛争地図が出来上がる。

まず南コーカサスから順に見ていくとわかりやすいと思う。

2)南コーカサス

アゼルバイジャンとナゴルノ・カラバフ紛争

アゼルバイジャンはアゼルバイジャン人が多数を占めていたが、アルメニア人が多く住む地域があり、これがナゴルノ・カラバフ自治州とされていた。1987年ごろからナゴルノ・カラバフはアルメニアへの移管を求めて運動を開始するとアゼルバイジャン人とアルメニア人の対立へと発展し、88年にアルメニア人虐殺事件が発生、ソ連解体後の92年、ナゴルノ・カラバフとアゼルバイジャンは共に独立を宣言、激しい戦争となる(ナゴルノ・カラバフ紛争)。ナゴルノ・カラバフをロシアが支援して戦況を優位に進め、94年の停戦後もナゴルノ・カラバフ共和国がアゼルバイジャン領の約20%を実効支配、アゼルバイジャン人口の八人に一人にあたる約100万人の難民が発生しているが、同地域は国際的には国家承認されていない未承認国家の一つである。

NKR
wikipediaより、ナゴルノ・カラバフ共和国(NKR)の支配地域

さらにクルド人問題や同じくアルメニア系住民が多く居住するナヒチェヴァン自治共和国のアルメニアへの移管問題などがあり、非常に困難な情勢の中でアゼルバイジャンのヘイダル・アリエフ大統領(当時)はアルメニアを敵国として国民のナショナリズムを喚起しつつ、権限を集中して独裁的な権威主義体制を樹立、死後息子のイルハムへと世襲され、「大統領君主制」的な体制が確立されている。外交的には欧米やトルコとの関係を重視する一方で、現在でもアゼルバイジャン人はアルメニア人虐殺を行い、アルメニア人はアゼルバイジャン人虐殺を行うという血で血を洗う紛争の中で難民が増え続けている。ただ、バクー油田とパイプラインの基点という天然資源の重要性から、ロシアは軍の駐留を条件に紛争の仲介を申し出るなど介入を強め、欧米はロシアをけん制しつつ、政権の人権問題への批判は行いながらも親欧米独裁体制を容認し、独裁と虐殺と紛争が延々続くという状況となっている。

また、アゼルバイジャンはカスピ海の領海を巡ってイランと対立関係にあることも付け加えておく。

グルジアのアブハジア紛争、南オセチア紛争

グルジアはさらに多数の紛争を抱える。まず、「アブハジア紛争」である。アブハジア自治共和国はグルジアの西部、上記地図でいうとソチのすぐ南東の空白の一帯で、ソ連時代からアブハズ人が多く住んでいた。87年頃からグルジア民族主義が台頭するとアブハズ人はこれを恐れて独立運動を開始。91年のグルジア独立に対して92年にアブハジアの独立を宣言、これにグルジアが軍を派遣してアブハジア紛争が勃発する。アブハジアはロシアの支援を得て勝利し94年に停戦合意となるが戦時中アブハジア領内ではグルジア人への大規模な民族浄化が行われ、同地からのグルジア人避難民問題を巡って現在まで対立が続き、グルジアとアブハジアとの武力衝突も頻発している。

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wikipediaより、アブハジア紛争地図

次に「南オセチア紛争」で、地図で言うと北カフカースの都市ウラジ・カフカス付近が「北オセチア・アラニア共和国」となるが、その国境付近南オセチアのオセチア人たちが北オセチアとの統合を求めて88年頃から統合運動を開始。90年、グルジア政府は南オセチアの公用語をグルジア語とし、南オセチアの自治を停止したため武力紛争に発展し、92年、ロシアの支援を受けた南オセチア側が勝利のうちに終わった。ただ統合は認められず、また多くの難民が出たがこれも解決されず、グルジアと南オセチアとの関係も2006年頃から再び悪化、武力衝突が繰り返されるようになり、2008年には南オセチアの帰属を巡ってロシアが軍事介入、南オセチア(ロシア-グルジア)紛争となった。

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wikipediaより2008年の南オセチア(ロシア-グルジア)紛争時の南オセチア周辺地図

また、2000年代以降グルジア北東部のパンキシ渓谷付近にチェチェン紛争を支援するアルカーイダや武装勢力が潜んでいるという名目でロシアが大規模な空爆を実施した。かつて周辺に武装勢力の基地が存在していたものの、空爆対象の地域は過激派や武装勢力とは関係ない一般人の居住地域で、ロシア軍が9.11.の「対テロ戦争」に便乗してグルジアに攻撃を加える目的での市民への空爆であった。他、トルコ国境付近の「アジャリア自治共和国」はグルジア独立のどさくさにロシアからの支援の下独裁者アバシゼに率いられて独立勢力化していたが2004年にグルジアに包囲され反政権デモによってアバシゼはロシアへ亡命している。

グルジア独立後、同国を率いていたのが元ソ連外相エドゥアルド・シュワルナゼで、92年に初代大統領失脚後最高評議会議長などを経て、95年から大統領となり、ロシアと距離を置いて欧米へ接近しつつ徐々に民主化を進めていたが、上記のような民族問題を始め、経済問題や政治の腐敗、ロシアとの対立の深刻化などで行き詰まり、2003年「バラ革命」で失脚。サアカシュヴィリ大統領下でさらなる民主化と欧米との協調・反ロシア外交が進められたが、2008~09年のロシア-グルジア戦争とその後の政権の不安定化で2012年に選挙で大敗。現政権は欧米との協調とロシアとの緊張緩和のバランス外交へとシフト、EU加盟を目指している。

アルメニア

アルメニアについては国内に民族問題は無いが、周辺との民族紛争・民族問題を多く抱えている。まずアゼルバイジャンとはナゴルノ・カラバフを巡って対立し、トルコとはかつてのアルメニア人虐殺問題から関係が未だ修復しておらず、またグルジア内のアルメニア人が自治運動を始めており、ここでも民族問題化の怖れがある。過去のアルメニア人を巡る各国の民族紛争から南コーカサス三国のうち、唯一親ロシア的スタンスで、周辺諸国とも距離を置き、国防も経済もロシアに大きく依存している。

3)北コーカサス

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wikipediaより北コーカサス諸国地図

チェチェン紛争

十八世紀のロシア南下政策開始以来、山岳民族であったチェチェン人はロシアの侵攻に徹底抗戦し1867年の北コーカサス併合以後も独立戦争を展開、1917年のロシア革命直後には山岳共和国建国宣言、しかしこれは解体させられ、1934年、民族的に近い隣のイングーシと合併させられチェチェン・イングーシ自治州成立、1936年自治共和国昇格する。ところが、第二次大戦勃発ともに、チェチェン人、イングーシ人、クリミア・タタール人、ヴォルガ・ドイツ人、朝鮮人などが対枢軸国協力者の敵性民族とみなされて強制移住を強いられることとなり、多くの人々がその過程で死亡する。スターリン死後の57年、チェチェン、イングーシ両民族の故郷帰還とチェチェン・イングーシ自治共和国の再建がなされるが、民族単体での独立は認められなかった。

1980年代後半、チェチェンで独立の機運が高まり、元ソ連空軍少将ジョハル・ドゥダーエフを指導者として91年独立を宣言、これに対してエリツィン大統領は治安維持部隊を派遣するが撃退される。92年イングーシ共和国が分離独立を宣言。アゼルバイジャンからロシア領内への石油パイプラインがチェチェンを通っていることもあって、以後もロシアはチェチェン独立を認めず軍事介入を繰り返し、94年以降紛争が本格化、第一次チェチェン紛争となる。

首都グローズヌイを始めとして大規模空爆に晒され、多くの村々でロシア軍による掃討作戦が展開、しかしムスリムが多いチェチェン人の武装勢力に対して中東・アフガニスタンからイスラーム義勇兵が多く集まり、国土の大半が山岳地帯という天然の要害を生かしたゲリラ戦を展開して一進一退の攻防となり戦線は膠着。96年、事態打開を図ってロシアはドゥダーエフ暗殺に成功し、同年5月、ロシアとチェチェンの停戦がダゲスタン共和国の都市ハサヴユルトで合意された。第一次チェチェン紛争では10万人のチェチェン人と2万人のロシア兵が死亡し、22万人の難民が出たとされる。

第一次チェチェン紛争を優位に終わらせることができたものの、カリスマであったドゥダーエフの死は大きく、後継者たちは相互に対立して争うようになり、軍閥なども出来て群雄割拠化が進む。さらに穏健なチェチェン人のムスリムと、義勇兵として集まっていたワッハーブ派を中心とした過激な聖戦主義者との間の溝も広がり、国内は混乱する。ワッハーブ派はサウジアラビアの国教であるから、中東からの潤沢な資金援助を背景にチェチェン政府の要職を独占するようになり、99年、元々穏健派だったマスハードフ大統領は国内のイスラーム過激派を無視できなくなり、イスラーム法の導入を宣言、広場での公開処刑の実施など極端なイスラーム国家化へと舵を切った。同年8月7日、ジハードの拡大を叫ぶイスラーム過激派に後押しされたバサエフ司令官率いるチェチェン武装勢力が隣国ダゲスタンへ侵攻する。(このダゲスタン侵攻はロシア側工作によるものとする説を2006年に暗殺された元KGBのアレクサンドル・リトヴィネンコが書いている)

この事態に際して99年8月16日、ロシア首相に昇格したのがウラジーミル・プーチンであった。プーチンは「北コーカサスにおける対テロ作戦」の開始を宣言し、第二次チェチェン紛争が勃発する。ロシア軍の総攻撃によって首都グローズヌイは陥落、2000年までにチェチェン全土をロシア軍が制圧し、マスハードフ大統領らは山岳地帯に撤退、チェチェン・イチケリア共和国となる。一方、プーチンは新たにマスハドフの政敵であったアフマド・カディロフをチェチェン行政府長官に任命、03年、独立派がボイコットした大統領選でカディロフは大量得票で当選し、カディロフ親ロ政権が誕生、懸案だったチェチェン問題で大成功をおさめたプーチンは国内の支持を確実なものとして、2000年に大統領に就任し現在まで続くプーチン体制が確立されていく。

カディロフ政権になってから、チェチェンは安定するどころかさらなる混乱の一途を辿る。アフマド・カディロフ大統領の息子ラムザンを中心とするカディロフ派(カディロフツィ)は国内でやりたい放題で見境なく拷問、殺人、掠奪、強姦を繰り返しており悪行の限りを尽くす。04年、アフマドが在任のまま爆弾テロで暗殺されると、穏健派のアル・アルハノフが継いだが間もなくラムザンと対立して辞任に追い込まれ、プーチンはやむなくラムザンを新大統領に就けるが、大統領になってからの残虐行為はさらにエスカレートして、過激派だけでなく一般市民に対しても弾圧(「市民に対する営利誘拐、掠奪、拷問、強姦、超法規的な処刑、ジャーナリストや人権運動活動家に対する弾圧や言論封殺」廣瀬「コーカサス国際関係の十字路」P89)が繰り返され、人権団体からの厳しい批判に晒されているが、非人道的な圧政は一向に止むことが無い。

独立派チェチェン・イチケリア共和国は05年にマスハードフ大統領、06年に後任のハリム大統領ら主要指導者が次々暗殺され迷走、2007年には北カフカース一帯を支配領域とするイスラーム国家「カフカース首長国」の樹立を宣言、引き続き対ロシア抵抗戦争の継続を訴えている。有力指導者も軍事力も失った同国は対ロシア・対カディロフ政権への抵抗手段としてテロリズムへと移行。アルカーイダやシーア派の流れをくむ急進派バーブ教武装勢力などが関与しているともいわれ、2004年のモスクワ地下鉄爆破テロなどに始まり、最近では2013年のボストンマラソン連続爆発事件、2013年7月ソチオリンピック阻止のためのテロ実施声明発表と、女性や子供を中心とした自爆テロ攻撃や世界各地での要人誘拐、施設占拠・爆破といった、最早独立運動の大義を見失っているとしか思えない活動を繰り返すようになっている。

ダゲスタン共和国

ダゲスタン共和国は民族構成が複雑で、度々民族衝突があり、その激化を防ぐため各民族で権力を分割する原則が敷かれている。そのような中で、伝統的なイスラームに反対して急進的なイスラームを唱えるワッハーブ派やシーア派の流れをくむバーブ教などが勢力を拡大。98年、山岳カダル地域で「独立イスラーム領」を宣言して政府と対立するなど、ジハードを唱えて武力闘争を始めていった。

99年のチェチェン武装勢力によるダゲスタン侵攻は、ダゲスタン国内のイスラーム過激派武装勢力との連携を目指したものだった。ダゲスタン侵攻はロシア軍の即応によって撃退されたが、国内のバーブ教武装勢力はその後も徹底抗戦し、チェチェン紛争の際にはロシア軍が度々ダゲスタンに侵攻して、チェチェンを支援するイスラーム過激派の掃討を行っていた。その後もイスラーム過激派の根拠地となり、度々テロ活動が行われている。

ソチ・オリンピックに際しても、2013年12月30日にソチの北東650キロの都市ヴォルゴグラードで起きた自爆テロを起こした容疑者として南ダゲスタンのイスラーム過激派の男二人が逮捕されている。(参考参考

イングーシ・北オセチア紛争

チェチェン紛争の項で説明したように、イングーシ共和国はソ連時代、チェチェン・イングーシ共和国として一つにされており、チェチェン独立の際に分離独立を果たした。しかし、そこで問題になったのが、隣国北オセチア・アラニア共和国との領土問題である。

原因は1940年代の強制移住に遡る。強制移住によってチェチェン・イングーシ自治共和国は廃されて、その領土の大半が北オセチアに割譲された。1957年、強制移住からの帰還とチェチェン・イングーシ自治共和国の再建が認められた際にも、その割譲された地域の多くは回復されないままオセチア人が住みついてしまった。

1992年、イングーシ共和国独立宣言の際にイングーシの旧領にあたる北オセチア領のウラジカフカス以東をイングーシ共和国領土としたために、北オセチアが反発、武力紛争へと発展した。ロシアの仲裁によって停戦となったものの、両国の遺恨は根深く度々武力衝突を繰り返している。

あわせて北オセチアはグルジアの項で説明したようにグルジア内の南オセチアとの統合問題もあって、周辺との衝突が絶えない。イングーシ人とチェチェン人はあわせて「ヴァイナフの民」と呼ばれるように民族的にも近く、オセチア人が古くから親ロシア的であることもあってチェチェン人勢力もオセチアを敵視しており、度々北オセチア国内でテロが起きている。

カラチャイ・チェルケス共和国の民族対立

ロシア人(33.6%)、カラチャイ人(38.5%)、チェルケス人(11.3%)などからなるカラチャイ・チェルケス共和国では、99年の大統領選でカラチャイ系候補がチェルケス系候補を破って当選したが、負けたチェルケス系候補がその選挙の不正を訴えたことからカラチャイ人とチェルケス人との対立が先鋭化してチェルケス人の分離運動へと発展。さらに2000年にはロシア系住民が政府内役職を民族毎の比例代表制とするよう訴えるなど、民族対立が表面化しつつある。これにチェチェン難民も流入して、慢性的な政情不安に見舞われている。

チェルケス人は十九世紀のコーカサス戦争でロシア軍によって虐殺の目にあうなど、ロシアへの遺恨が深い。そして、チェルケス人はソチの先住民でもあり、ソチ・オリンピックに際して複雑な心境を吐露したニュース記事なども報じられていた。(参照

朝日新聞デジタル公式チャンネル「ソチの先住民、チェルケス人弾圧の歴史 – YouTube

4)モルドヴァ・ウクライナ・クリミア

モルドヴァ共和国と沿ドニエストル独立問題

実は、同国の成立と分裂には日本が少なからず関与している。

モルドヴァ共和国の前身モルダヴィア公国は十四世紀にルーマニア人によって建国された国家で、十六世紀にオスマン帝国の宗主権を認めて属国となり、オスマン帝国の”柔らかい専制”下でルーマニア人による自治を守っていた。十八世紀、ロシアの南下とともにモルダヴィアはオスマンとロシアとの攻防の舞台となって奪い奪われを繰り返していたが、1812年のブカレスト条約によってモルダヴィアの東部はロシア領となる。ロシアによってこの地域はベッサラヴィアと名付けられロシア化が進められたが、1918年、ロシア革命の最中、独自に創設されたモルドヴァ議会によってモルドヴァ共和国の樹立とルーマニアへの統合が決議され、ルーマニアとの間で統合を約したベッサラヴィア条約が締結される。

ソ連はこれを認めず、1924年、ドニエストル川以東からウクライナ共和国にかけての一帯に「モルダヴィア・ソヴェート社会主義自治共和国」を創設、同時に、当時北京で開催されていた日ソ基本条約の前交渉にあたる芳沢―カラハン交渉で英仏伊日の関係者にベッサラヴィア条約を批准しないよう迫り、日本もこれを外交カードとして同条約の批准を引きのばした。(参考・当時の新聞記事)結局日本は批准しないままベッサラヴィア条約は成立せず、1940年、ソ連が同地を再併合し、南部ベッサラヴィアをウクライナに割譲、残りを「モルダヴィア・ソヴェート社会主義自治共和国」とし、新たにルーマニア系住民を人工的に作ったモルドヴァ人と定めた。

このような歴史的経緯からロシア人とモルドヴァ人との対立は根深く、1980年代後半、ソ連の支配力が低下すると、モルドヴァ民族主義が高揚、両者の分裂は決定的となる。1990年、ロシア人はモルドヴァ共和国東部一帯にあたるドニエストル川東岸地域に「ドニエストル・ソヴェート社会主義共和国」建国を宣言、91年に独立を宣言した「モルドヴァ共和国」と、92年3月からコサック兵や駐留ロシア軍も巻き込んでの武力衝突となり同年7月のエリツィン=スネグル合意まで続くことになった。結局ドニエストルの地位は未確定のまま、「沿ドニエストル共和国」として、モルドヴァ共和国内でモルドヴァ共和国の支配が及ばない地域という状態におかれている。

「沿ドニエストル共和国」はCIS構成国内の未承認国家としてグルジアの「アブハジア」「南オセチア」アゼルバイジャンの「ナゴルノ・カラバフ」とロシアの後ろ盾の下で相互承認や定期的な四か国外相会談を行い、密な関係を保っているが、近年はナゴルノ・カラバフが三か国から距離を置いて独自路線を歩んでいるという。

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wikipediaより黄色の部分が「沿ドニエストル共和国」

ウクライナ共和国

ウクライナ一帯は十六世紀以降ポーランド・リトアニア連合国家の支配下に置かれたが、十六世紀後半にコサックが勢力を伸ばしてコサック国家を樹立、ポーランドからの独立戦争を起こすが、オスマン帝国とロシア帝国の対立の狭間で徐々に衰退し十八世紀までにオスマン、ポーランド、ロシアによって分割統治されることになる。ポーランド分割を経て十九世紀以降はその大半がロシア帝国の支配下となり、その圧政に対してウクライナ民族主義が高揚するが、事態が大きく動くのは1917年、ロシア革命後のことだ。

1917年、ロシア革命によって帝政が倒れると、ウクライナではウクライナ中央ラーダ(評議会)が組織され、ウクライナ自治を決議。ロシア臨時政府はこれを認めず、同年十月ソヴェート臨時政府と中央ラーダ軍とで武力衝突となるもソ軍大敗、11月7日、ウクライナ人民共和国建国を宣言する。しかし、翌18年1月よりソ軍が再侵攻、ウクライナ軍は撃破され、続いて3月にはドイツ・オーストリア軍がウクライナに侵攻して全土が制圧されるが、第一次大戦の終結とともに独墺軍は撤退、代わって19年ソ軍が再々侵攻してキエフにソヴェート政権が樹立、西部に西ウクライナ人民共和国が作られるがこれも20年に撃破され、22年、ソ連成立とともにウクライナはソ連構成共和国の一国に再編成された。この成立過程でソ連はウクライナに苛烈な態度で臨み、ソ連構成国になる際も自治を望むウクライナ政府の要望を力づくで退けたことから、遺恨が深まった。

30年代に入るとスターリンによって農業の集団化、クラーク(自営農)撲滅、穀物強制徴発などが徹底され、折からの飢饉も重なってウクライナでは400万人から600万人が餓死。このとき文書で飢饉を報告したウクライナ幹部にスターリンは「飢饉の作り話をするなら作家になれ」と返事を送った。さらにクリミア・タタール人が強制移住させられて多数の犠牲者を出している。41年、独ソ戦が始まり独軍がウクライナを占領、スターリン体制からの解放に沸いたが、独はウクライナ人を劣等人種として本国に強制連行させるなど徹底的に弾圧し、44年の独ソ戦終結までに民間人含めて550万人が犠牲となった。戦後ソ連に復帰し、53年のスターリン死後にはウクライナ人の名誉回復が図られたものの、恨み骨髄に徹すとはまさにこのことで、水面下で反ソ・独立の志向が育まれていく。

1980年代後半、ペレストロイカが始まると、まずウクライナ語公用語化運動に火がつき、89年、ロシア語に代わりウクライナ語を公用語化することが決定、続いてウクライナ・カトリック教会の復権運動が始まり、ロシア正教と鋭く対立、この宗教問題が民族主義と結びついて独立運動化し、知識人を中心とした『ルーフ(運動):正式名称「ペレストロイカのためのウクライナ人民運動」』党が結成されて勢力を伸ばし、同党の躍進を背景にして90年7月主権宣言、91年11月には国民投票で90.3%の賛成多数で完全独立が決定される。一方、この過程で共産党内部でモスクワ派と主権派とが分裂、主権派コミュニストにルーフ党ら民主独立派が結びついて両者の対立が深まり、この対立構図は独立を経て現在まで続くことになる。

独立後、初代大統領となったのが主権派コミュニストの指導者レオニード・クラフチュクで、クラフチュク政権は独立強化方針を打ち出し、その結果ロシアとの対立が先鋭化する。その最大の問題がクリミア自治共和国だった。

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ポーランド・ウクライナ・バルト史P338より「独立の是非を問う国民投票の州別結果(1991年12月1日実施)」図(画像クリックで拡大)。古いデータだが、州別のロシア系住民、ウクライナ系住民人口比率も記載されているので、現状把握に有用な図と思われる。クリミアとウクライナ東部諸州がロシア系住民比率が高いことが見て取れる。

クリミア自治共和国

モンゴル帝国の一つジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の衰退後、十五世紀半ばごろからオスマン帝国に従属する形でクリミア半島一帯にクリミア・ハン国が成立、モスクワ大公国を脅かしていたが、十七世紀以降ロシア帝国の拡大とともに徐々に形成逆転され、露土戦争(1768-74)の結果、クリミア・ハン国はオスマン帝国の後ろ盾を失い、1783年、ロシア帝国に併合される。黒海艦隊が配備され、クリミア戦争(1853-1856)を経てロシア化が進められ、第二次大戦でも独ソ戦の主要戦場となるなど、ロシア南下政策の最重要拠点とされていく。

ソ連発足後、クリミア自治共和国が置かれるが、第二次大戦中、前述の通り中世以来クリミア半島に定住していたクリミア・タタール人は強制移住の対象として立ち退きを余儀なくされ、シベリアなどで強制労働の果てに死んでいった。その強制移住と同時にクリミア自治共和国は廃止。直轄地となってロシア系住民が入植し、現在までにおよそ三分の二がロシア人、三分の一がウクライナ人、少数の帰還したクリミア・タタール人という人口構成になっている。53年、フルシチョフによってウクライナ共和国に移管されクリミア州になるが、人口構成上も親ロシア色が強く、ウクライナとは政治的距離があった。

92年、ウクライナ独立に対し、クリミアはウクライナからの分離独立とロシアへの帰属を要求。ウクライナ政府はこれに反対し、一方でロシアはクリミアの分離を支持したことでウクライナとロシアとの激しい対立の要因となった。クリミアを巡る問題点は、黒海艦隊と軍港セバストーポリの帰属で、どちらも最終的な解決は97年、次のクチマ政権になってからのことだ。特に重要なのはセバストーポリ租借問題で、セバストーポリは2017年までロシアがウクライナから租借、続いて2010年に再締結された協定によって2042年まで延長となる。また、黒海艦隊についてはロシア81%、ウクライナ19%比での分割と決められた。(参考

一方で、クリミア独立問題については、94年当時、ロシアはチェチェン独立を徹底的に弾圧していたから、チェチェンを弾圧する一方でクリミアの独立を支援するのはダブルスタンダードだという批判が強く、ロシアも支持をひっこめざるをえなくなり、独立運動は立ち消えとなってウクライナ共和国内の自治共和国という地位で収まることになった。

ウクライナのエネルギー問題

ウクライナ、モルドヴァとウクライナの隣国ベラルーシはエネルギー資源に乏しく、ロシアからの輸入に頼っている。ロシアから欧州へと輸入される石油・天然ガスパイプラインがウクライナやモルドヴァを通っており、そのパイプラインを通してウクライナも石油・天然ガスを購入している。

RUGasPipesMap
wikipediaより、ロシアからEU諸国へのガスパイプライン図

このパイプラインを巡るロシアとウクライナの対立が表面化したのが2006年のことだ。05年にウクライナ大統領となり反ロ・親欧米路線を強化したユーシェンコ政権に対し、プーチンはウクライナ向けの天然ガス価格を欧州と同程度に値上げする旨通達する。このとき、プーチンは「ウクライナは西側に抱きつきたいなら、よくよく考えるべきである」(ゴールドマン著「石油国家ロシア」P228)と語ったという。

当時、西側の市場価格が150ドル/1000立方メートルであったのに対し、ウクライナは50ドル/1000立方メートルと安価で供給されていた。これに対してウクライナは契約違反だとして従来通りの価格を支払うと主張、しかしロシアも譲らず、欧州分の供給量だけしかパイプラインに流さなくなる。だが、ウクライナは2005年12月31日時点まで受けとっていた分のガスを抜き取り、結果、欧州への供給量が激減、大問題となった。それをロシアが不当として再批判する。プーチンは契約の正当性を盾に欧州の国際世論を味方に付けようと試みたが、ここで、FBIがロシアからウクライナへの輸入に際して、様々なマフィア・ダミー企業などが介在して不正操作があり、ロシアからの供給過程が不透明だという調査を発表し、ウクライナに同情的な世論が形成、ロシア側も折れざるを得なくなり、最終的に95ドルで落ち着くことになった。ウクライナに対してと同様の圧力をモルドヴァや親ロでもあったベラルーシにも働きかけており、ロシアからの輸入に依存する欧州諸国でもエネルギー供給安定化のため、脱ロシアが重要な課題となった。

そこで、記事冒頭で触れたアゼルバイジャンからグルジアを通ってトルコへと繋がるBTEパイプラインを欧州へ延長するナブッコ・パイプライン構想が浮上することになる。これまで、このパイプラインを巡ってロシアと欧州との駆け引きが繰り返され、同計画は何度も何度も延期を余儀なくされている。つまり、ロシア・欧州にとって、ウクライナの不安定化が、ぐるりと黒海を回ってコーカサス・西アジアの重要性を高めることになるという構図である。

ゆえに、長々と書いたが、ウクライナ情勢は、これら黒海沿岸諸国すべての問題と大なり小なりリンクしあう、ということになるのだ。ウクライナ情勢はこれら全ての周辺諸国の状況を念頭におきつつ推移を見守ることにならざるを得ないと思う。どことどう反応することになるのか、どのような影響を及ぼすか、勿論未知数だが、ウクライナ問題はほぼ間違いなくこれらのどこかの問題を再燃させることになるし、今後は、ロシアもEUも米国も周辺諸国もそれを外交カードとして使うことになるだろう。

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マーシャル・I・ゴールドマン著「石油国家ロシア 知られざる資源強国の歴史と今後」P264より。主要国ではドイツとフランスがロシアからのガス輸入依存度が高い。今回のウクライナ情勢についてもメルケル首相がプーチン大統領と緊密に連絡を取り合っている(参考)のはこのような背景がある。

5)ウクライナ情勢は黒海諸国とどうリンクするか

ほぼ親ロ勢力の支配を固めたクリミア自治共和国だが、これまでのロシアの政策を見れば、「沿ドニエストル」「アブハジア」「南オセチア」「ナゴルノ・カラバフ」などと同様に独立はさせず実効支配に留めて、反ロ共和国内での親ロ独立勢力として活用するのではないかと思う。クリミアはこれら「共和国内共和国」、特に、オデッサ州を挟んですぐ近くの、ウクライナの親ロ政権が倒れたことで完全に飛び地化した「沿ドニエストル」と連携を強めることになるだろう。

さらに、クリミアと沿ドニエストルとの間にあるウクライナ領の都市オデッサはロシアと欧州とを繋ぐガスパイプラインの中継点であり、同時にグルジアからウクライナへの黒海を横断しての海運での石油輸入窓口でもある。クリミアの支配が安定化すると、オデッサを巡ってウクライナと黒海艦隊を備えたロシアの緊張が高まる可能性があるかもしれない。

クリミアの実効支配からの「共和国内共和国」との連携はそのままグルジアやアゼルバイジャンなど反ロ共和国への圧力になる。アブハジアや南オセチア、ナゴルノ・カラバフの独立・統一運動が活性化すると南コーカサス一帯の不安定化要因となりかねない。ロシアとしてはこれを外交カードにして活用していくだろう。

一方で、北コーカサスの民族運動も活性化させる可能性がある。特に90年代のクリミア独立問題の際にはチェチェン紛争とリンクしていたように、チェチェン、ダゲスタンなどの武装勢力が活発になるかもしれない。「南オセチア」問題が再燃すると、北オセチアとの統合問題となり、ひいては北オセチアとイングーシの対立の再燃へと展開するかもしれない。だが、ロシアにしてみれば親ロ「共和国内共和国」の活性化は望んでもロシア連邦「共和国内共和国」の独立運動の活性化は望まないから、そうなった場合には北コーカサス一帯に対するロシアの圧力が非常に強まる。

ウクライナ内の対立はまだ混沌としているが、問題の長期化・深刻化はロシアも望まないことだろう。EUにとってウクライナの安定化はエネルギー輸入の安定化のために重要だが、2000年代以降急激にエネルギー輸出大国に成長したロシアにとっても、ウクライナ問題が深刻化することで対EU輸出が滞ることになると、未成熟の国内産業をエネルギー事業が牽引している状態だから国内経済への大きなダメージになる。短期的・限定的な武力行使は視野にあるかもしれないが、本格的な武力介入や問題の長期化・分裂は望まないという点でEU、ロシア、ウクライナ各当事者の思惑は一致しているのではないか。引き続き分裂を回避しつつウクライナ一国のイニシアチブ争いで終始しそうだと思う。

ウクライナの不安定化が長引けば長引くほど、エネルギー供給源としてのアゼルバイジャンの重要性が高まる。大きくわけてアゼルバイジャンからグルジアを経由してトルコへのパイプライン(この延伸計画が前述のナブッコ・パイプライン)と、アゼルバイジャンからロシア・ウクライナを経由して欧州へのパイプラインがあるが、ロシアとしてはアゼルバイジャンを親ロに転換させるか、少なくともより譲歩を引き出すことがこれまで以上に重要になる。一方でEUとしてはアゼルバイジャンからロシアを通さずにエネルギーを欧州まで運びたいから、アゼルバイジャンからは極力ロシアの影響を排除したい。

ロシアとしては例えばナゴルノ・カラバフを再燃させたり、反独裁を旗印にした民主化運動を焚きつけたりなどして、それをきっかけに介入を深めるかもしれない。特にアゼルバイジャンを抑えれば、直接的にはトルコに強い影響を及ぼすことが出来る点でもロシアには利益が大きい。トルコはシリアを巡ってロシアと対立しているから、アゼルバイジャンがもし不安定化するようなら、シリア問題とも少なからず影響しあうことになる。

これらはあくまで個人的に想像しえる予想のいくつかでしかないので、全く違う事態になる可能性の方が遥かに高いと思うが、ウクライナ・クリミア問題をより広い視野で考えるヒントとして、黒海周辺諸国全体とリンクさせながら見てみると良いと思います。

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