「ネガティブ・マインド―なぜ「うつ」になる、どう予防する」坂本 真士 著

人には感情がある。喜怒哀楽、さまざまな「感情」は単独で経験されるわけではなく、『ある出来事に遭遇し、その出来事を解釈して何らかの意味を付与』(P6)=「認知」した結果、感情は経験され、それは「身体」にも反応が現れ、「行動」がとられることになる。この「感情」「認知」「身体」「行動」の四つは相互に働きを強めあう相互増強作用を持っている。不安、怒り、憂鬱などの感情は「身体」や「行動」にも影響を与え、相互に強めあいながら、「うつ症状」や「うつ病」として現れることがある。

『本書では、うつという感情を発生させる心の働き(認知)を「ネガティブ・マインド」と名付け、その仕組みを認知心理学や社会心理学の知見をもとに明らかにしていく。』(「はじめに」より)

非常によく論点が整理された良書だと思う。

本書によると「うつ」を扱う主な研究領域には精神医学と臨床心理学がある。精神医学は『客観的・科学的に精神疾患を捉えることが多く、通常、精神科医は第三者的な立場から患者の病態を分析する「三人称的な理解」』、臨床心理学は『患者の内的世界に多くの注意を払い、患者の訴えを時間をかけて聴き、気持ちを共感的に理解しようとすることが多い(中略)「二人称的な理解」』という特徴があり、これに対して本書のアプローチは『自分の視点から自分自身のネガティブ・マインドを理解』しようと試みる『主観的な体験を対象としながらも、客観的な記述や把握を目指』す「一人称―三人称的な理解の仕方」であるという。(「はじめに」より)

第一章でおもな「うつ症状」とDSM-IV-TRに基づく「うつ病」の特徴、「うつ」の疫学的な知見などを踏まえた「ネガティブ・マインド」の説明が行われたあと、第二章で「制御理論」に基づいて「自己注目」がいかにして行動の適切さの基準を意識させるようになるか、その結果として自己注目がうつへ及ぼす影響を概説したあと、第三章でネガティブ・マインドの仕組みについて自己-他者-内在他者の関係性や「気分一致効果」、「自己確証」などの様々な理論を用いて説明され、第四章で自身のネガティブ・マインドをいかに把握し、コントロールするかについての様々な対処法が説明されている。

自分自身について考えること(自己注目)は「内省(内観)」という形で『自分や自分と人との関わりを洞察することで悩みの解消や自己の成長につながる』(P150)一方で、「ネガティブ・マインド」として現れたならばネガティブな感情で自己を注目し続けた結果、さらに落ち込んでいってしまう。前者を機能型自己注目、後者を機能不全型自己注目と呼ぶが、機能不全型自己注目としての「ネガティブ・マインド」の思考の特徴として「完全主義」や「引き算思考」などと並んで見られるのが「推論の誤り」であるという。『落ち込みやすい人は、現実から何らかの推論を行う際に、誤った推論をしやすいことが指摘されている。』(P171)

以下P171-174より、具体例・質問票を割愛して要点のみ改変引用
① 恣意的推論:証拠もないのにネガティブな結論を引き出してしまうこと。
② 選択的注目:最も明らかなものには目もくれず、些細なネガティブなことだけを重視してしまうこと。
③ 過度の一般化:わずかな経験から、広範囲のことを恣意的に結論してしまうこと。
④ 拡大解釈と過小評価:ものごとの重要性や意義の評価を誤ってしまうこと。
⑤ 個人化:自分に関係のないネガティブな出来事を、自分に関係づけて考えてしまうこと。
⑥ 完全主義的・二分法的思考:ものごとに白黒つけないと気がすまないこと。また、ものごとは完璧か悲惨かのどちらかしかないかのように極端に考えてしまうこと。

このような「推論の誤り」に陥らないために重要なのが『落ち込んだ状況で自分がどのような考え方をしているのかを知る』(P176)「メタ認知」と、『ネガティブに偏った考えに反する別の見方を探して「考えのバランス」をとること』(P177)で、その手法として「クリティカル・シンキング」やゲシュタルト療法の一つ「エンプティ・チェア」、認知療法の一つ「コラム法」など様々なメタ認知手法が紹介されている。

「メタ認知」で、個人的な、少なからず中二病乙なオカルトじみた話をするが、二十代の一時期、もう一人の自分がいたことがある。頭の少し上にいた彼が興味深いのは、何かとネガティブ思考に陥りがちな僕を、何かと慰めて肯定してくれていたことだ。「ネガティブ・マインド」の反対語だと「ポジティブ・マインド」だろうが、僕の場合の前向きというの元も違うただの慰めでしかないので、さしずめ” comfortable mind”とでもいうべきか。何を言っているのかわからないと思うがそれでいい。解離性同一性障害や統合失調症なら攻撃的であるはずだし、そもそも僕は僕としてアイデンティティを保っているし、年齢的に”imaginary companion”(空想上の友達)というわけでもなく、三十歳を前にするぐらいにすっかりいなくなってしまって、そのときもその後も特に支障なく生きている。もしかすると「メタ認知」の人格化だったのかもしれない。

その後の僕はなんというかブログをみてもらえばわかると思うのだが、「メタ認知」の奴隷というか、「メタ認知」的な思考への執着が年々エスカレートしているので、その萌芽と考えるとそれはそれで面白いなどと思ったりもしている。しかし、自分以外の者に対する「メタ認知」への異常な拘りに対して、自分自身に対してはどうしても「メタ認知」的な視点を持てずにいて、そのギャップはどう埋めたものか、悩ましい。本書などを参考にしつつなんとかしたいのだが。

もう一つ、「メタ認知」の話題として、最近興味を惹いたのがいわゆる「黒子のバスケ事件」の容疑者の意見陳述書だった。

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) – 個人 – Yahoo!ニュース
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2(篠田博之) – 個人 – Yahoo!ニュース

自己弁護への批判などとともに格差社会観へのある種の共感、文章力への称賛などの声も見られていたが、僕は、「メタ認知」の陥穽のようなものを感じた。自身の「ネガティブ・マインド」を徹底的にメタな視点で眺めた上で、彼はその自身の感情を「素材」にして自己憐憫の物語を組み上げているように見える。本人が意識しているのかどうかしらないが、そこで描かれる彼の姿はまるで「時計じかけのオレンジ」のアレックスのようだ。人生と云う名のルドヴィコ療法にかけられて尚犯罪に及ぶ自己という物語に見える。

自己と社会に対する誤った推論を次々と積み重ね、その様をメタな視点から眺めて、一つの物語として組み立て直す。そうやって組み立てられた物語が自己確証を深めて、犯罪に及ぶ。あるいは犯罪に及んだ自己の正当化のために創作されたのかもしれない。罪を犯す自分へと至る「王の帰還」の物語だ。繰り返すがこれはただの「自己憐憫の物語」でしかない。「適正な手続きに基づく裁判」を通じて物語の解体を行い粛々と刑に服させればよいのであって、彼の「物語」は、社会的問題としてどうこう論じるような類の話ではないが、そこにはたしかに「メタ認知」の陥穽があるのではないか。

『主観的な体験を対象としながらも、客観的な記述や把握を目指』す「一人称―三人称的な理解の仕方」の客観性を担保するにはどうすればよいのか。軽い「ネガティブ・マインド」ならよかろうが、深刻になればなるほど「主観的な体験」を「客観的な記述や把握」するには困難が生じる。科学的・医学的な知見の無味乾燥を一人で受け止めるのは難しい。ネガティブ・マインドの先にある生き方の物語をどう作れば良いのか、そこに落とし穴があるような気がする。

現代社会はストーリーテリングの時代でもある。政治からブログまでそこには自身の物語が溢れる。自身の「ネガティブ・マインド」と向き合い、痛みを軽減して前向きになる一つの「物語」を作ることも出来れば、認知したその自身の感情を、悲劇の主人公としての「物語」とすることもできる。

「うつ」を生み出す、不安、怒り、憂鬱、落ち込んだ感情などの「ネガティブ・マインド」について多大な理解が得られる一冊であると同時に、人間の「感情」の落とし穴について改めて考えさせられた。他、本書の記述で、対処的悲観主義、記憶のネットワーク理論、あとコラムで何度か挟まれる巨人の星の星飛雄馬の心理分析なども非常に興味深かった。

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