三浦半島随一の桜の名所「衣笠山公園」と「衣笠城址」

神奈川県有数の桜の名所、横須賀市の衣笠山公園と衣笠城址に行ってきました。行き方はJR横須賀駅または京急本線横須賀中央駅からバス、またはJR衣笠駅から徒歩となります。お花見期間中は公園周辺に交通規制がかかって一般車両は入れないので、公共交通機関でどうぞ。ということで、衣笠駅から徒歩で向かいました。

衣笠山公園へ至る桜並木

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衣笠神社

衣笠駅から15分ほど歩くと衣笠公園へ向かう坂道に入り、住宅街の間をしばらく登ると徐々に桜並木が見え始め、数分で衣笠山公園の入り口付近の衣笠神社に辿り着きます。

衣笠神社

衣笠神社は大正二年(1913)九月、周辺の衣笠村、大矢部、小矢部、金谷、平作、池上、阿部倉、森崎の計八か村二十九神社を皇大神社に合併して衣笠神社と改め現在地に創建された。現地の案内板には23社とあるが、神奈川県神社庁の衣笠神社のページには『衣笠の鎮守で衣笠城のあった坂台に村社藏王社があった。(五社) 明治四十五年三月二十六日、衣笠村五社、小矢部村四社、金谷村二社、大矢部村六社、森崎村二社、池上村三社を一村一社の令により合祀(計二十九社)』とあり(つまり5社+22社+阿部倉・平作の2村社で29社)、また図書館で調べた神奈川新聞1993年(平成5年)4月27日付記事「三浦半島神社めぐり 衣笠神社」にも『旧八ヵ村合計二十九の神社』とある。

この衣笠神社誕生の背景としては明治四十年から始まる神社合祀政策があるが、さすがに当神社が高台にあり、かつかなり広範囲の地域の神社を合祀したことで参拝が不便であることなどから、第二次大戦後、衣笠神社はそのままにして、大矢部、平作、池上、阿部倉の元の地に各神社がそれぞれ一社ずつに整理統合された上で再建された。

衣笠神社拝殿

衣笠神社拝殿

祭神は天照大神(アマテラスオオミカミ)の別名である大日霊貴尊(オオヒルメムチノミコト)。

衣笠山公園

衣笠山公園

衣笠山公園がある衣笠山は実は通称で正しくは「鞍掛山」である。ただ、衣笠城から鞍掛山に至る一帯を、隣接する衣笠城から、広く「衣笠山」と呼ばれ親しまれている。明治四十年(1907)四月十八日、日露戦争に従軍して戦死した近隣の戦没者の霊と弔うために慰霊塔を建てるとともに数百株の桜やツツジを植えて公園として開園したのが始まりで、現在までに桜は二千本を数え、日本さくら名所100選の一つに数えられている。

また第二次世界大戦中の日本海軍の重巡洋艦衣笠の名前がこの衣笠山から取られたことでも知られている。

衣笠さくら祭り

衣笠さくら祭り

衣笠さくら祭り

お約束の顔抜きパネル

お約束の顔抜きパネル

犬?猪?豚?のオブジェ

オブジェ

園内の桜

衣笠山公園の桜

衣笠山公園の桜

衣笠山公園展望台からの眺め

衣笠山公園展望台からの眺め

衣笠城址

衣笠山公園展望台脇の山道を下り、建設途中の三浦縦貫道路を横断して再び山道を20~30分ほど歩いて行くと、衣笠城址へと辿り着きます。

衣笠城址碑

衣笠城址碑

衣笠城は平安時代以降歴史の表舞台でその名を馳せる三浦氏の居城である。平氏の流れを汲む武士村岡平太夫為通が、前九年の役(1051~62)で源頼義に従って功をあげ、1063年、三浦の地を与えられて三浦氏を名乗ったときに、この地に居城となる衣笠城を築城したことに始まる。当地は大谷戸川と深山川という二つの川に挟まれて突き出た半島状の地形という天然の要害で、三浦氏による三浦半島統治の拠点となった。以後為継、義継と勢力を伸ばし、三浦義明(1092~1180)の代に源義朝に従って相模国・武蔵国一帯を源氏の勢力下に置くべく活躍、源義朝の長子義平の母は三浦義明の娘であるとも言われている。

衣笠城の名を歴史に刻んだのが治承四年八月(1180)の衣笠城合戦である。治承四年八月(1180)、以仁王の挙兵に始まる中央の政変に呼応して源頼朝が伊豆で挙兵すると、三浦義明もこれに従い兵を挙げる。頼朝軍に合流しようと兵を進めようとするが酒匂川の増水に阻まれて身動きが出来ない。その間に頼朝軍は石橋山の戦いに敗れて房総半島へ脱出。義明も頼朝敗戦の報に接して撤退の途上、畠山重忠軍と現在の逗子海岸付近で合戦(小坪合戦)となり追撃を振り切って衣笠城へ撤退。その後畠山重忠・江戸重長・河越重頼らが率いる平家方の大軍が衣笠城を取り囲む。多勢に無勢、一日で落城寸前に追い込まれるが、当主義明は子の三浦義澄や孫の三浦義村・和田義盛らに脱出して頼朝に合流して再起を図るように命じると、一人衣笠城に立て籠もり、大軍を前に城を枕に討ち死にした。89歳の老将の討ち死には平家物語や源平盛衰記、吾妻鏡など当時の記録・軍記物で源平合戦(治承寿永の乱)初期の代表的なエピソードの一つとして長く語られることとなった。

鎌倉幕府成立後、あらためて衣笠城は三浦氏の居城となり、衣笠一体も三浦半島の中心として栄えることになった。巧みに権謀術数を駆使して血で血を洗う政争を生き残った三浦義村は御家人筆頭として北条氏に次ぐ地位を築いたが、義村亡き後の宝治元年(1247)、宝治合戦で北条氏によって三浦氏は滅ぼされ、衣笠城も廃城となった。

日本中世史、源平合戦好きなら一度は訪れたいと思う名所の一つだろうと思う。僕もかねてから行きたいと思っていたので念願かなったという感じだ。

物見岩

衣笠城址物見岩

衣笠城合戦の際には義明がこの物見岩から戦況を眺めて指揮を執ったといわれ、後の調査で物見岩の下から経筒・鏡・刀子などが発掘されている。

衣笠城案内図

衣笠城案内図

平場

平場

御霊神社

御霊神社

衣笠城址の石碑や物見岩のある周辺は開けた平場となっているが、かつては衣笠城の防衛線である詰の城で金峯蔵王権現堂があったという。金峯蔵王権現堂は伝承では奈良時代の著名な僧行基がこの地を訪れた際に、自ら彫刻した不動明王像を祀ったものと伝わる。

今はベンチが設けられてゆっくりと桜を見ながらくつろげるスポットです。

大善寺

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この平場から降りていくと曹洞宗の寺院大善寺が座している。この寺院は金峯蔵王権現堂が建てられた際に、その別当として建てられたもとと伝わる。三浦氏が衣笠城を築いた際に、大善寺、金峯蔵王権現堂、不動明王像を祀った不動堂は三浦氏の仏教信仰の中心的な役割を果たしていたという。大善寺の本尊、十二世紀に作られた阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像と江戸時代に作られた勢至菩薩立像からなる阿弥陀三尊像は横須賀市重要文化財に指定されている。

また、大善寺の下には行基が杖で地面を叩いて沸きださせたという伝説の残る「不動の滝」という水場があり、衣笠城の生活用水として活用されていたが現在はコンクリートで蓋をされている。

というわけで、このあたり、歴史と桜を愛でるハイキングコースとして非常におすすめです。ここからさらに足を延ばして三浦半島最高峰として名高い大楠山山頂まで歩くコースが定番ですが、久しぶりに山歩きして疲労困憊&衣笠城址を堪能して大満足だったのでここから帰宅したのでした。また、近隣の寺院にも三浦氏ゆかりのものが多いので、そられはまたあらためて行こうかなと思っています。

参考書籍・資料・サイト
・各地の案内板
神奈川県神社庁の衣笠神社のページ
横須賀市観光情報サイト「ここはヨコスカ」衣笠城址
・神奈川新聞1993年(平成5年)4月27日付記事「三浦半島神社めぐり 衣笠神社」
・神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会 編「神奈川県の歴史散歩 (上) (歴史散歩 (14))
衣笠山公園 – Wikipedia
・石丸 煕 著「海のもののふ三浦一族
衣笠城 埋もれた古城

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