近代日本、海水浴誕生の歴史

今や夏の行楽の代表となった海水浴だが、日本で海水浴が始まったのは明治時代のことだ。

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明治以前の海水浴

海水浴が始まるまで、日本では海は行楽の対象ではなかった。唯一の海での遊びとしては「潮干狩り」があったが、基本的に海は漁民たちの生活の場であり、江戸時代には鎖国政策もあって海は近寄りがたいものとする風潮が強かった。海に入る行為としては穢れを清める儀式としての「水垢離」や祭礼の一環として神輿を担いで海に入る「海上渡御」などの宗教的儀式としてのものか、海水が健康増進・病気療養によいとする言い伝えから、病気予防のため、あるいは病気の者が海水を浴びて治療をしようと試みる「汐湯治」など医療目的のもので、行楽として海に入る行為は見られなかった。また、水泳は武芸として武士階級で広く行われていたが、川泳ぎが中心であった。

欧州では十八世紀の中頃から海岸周辺での保養・療養の重要性が語られるようになり、1740年のイングランド北東部スカーバラに開かれた海水浴場を嚆矢として、1754年ブライトンに、1794年にはドイツのメクレンブルク州ドベラン海岸に海水浴場が開設された。背景としては産業革命の進展による大気汚染や疫病の蔓延などによる健康志向の拡大があり、十九世紀以降海水浴場には海浜療養施設(サナトリウム)が併設されて欧州各地に拡大、海水浴は医療目的として始まっていた。一方で船乗りたちが療養行為としてではなく気晴らしに水浴びしたり泳いだりという遊びとしての海水浴もあり、この両方が幕末・明治期に日本に伝わってくる。

日本における海水浴の先駆は富岡村(現在の横浜市金沢区)の富岡海岸である。慶応年間に漂着した船員ワツソンが慶珊寺に滞在し、そのとき富岡海岸で海水浴を行ったという。以後、幕末明治に横浜に滞在した外国人たちの間で富岡海岸は保養地として有名になり、宣教師や商人らが明治十年ごろにかけて次々と慶珊寺に逗留、海水浴を楽しんだ。その中には日本の大学教育開始に貢献した宣教師フルベッキ、ヘボン式ローマ字の発明者ヘボン博士、横浜に病院を開設して近代医療の導入に貢献した医師エルドリッジなどがいる。また、明治九年には片瀬海岸でフランスの実業家エミール・ギメが、明治十年には江ノ島でエドワード・モース博士が海水浴を楽しんでいる。

ベルツと海浜保養の思想

海水浴の本格的な導入に大きな影響を与えたのが、「日本近代医学の父」と呼ばれるドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツ(1849-1913)である。明治八年(1875)に東京医学校(後の東大医学部)講師として招かれ、明治三十八年(1905)まで、医師の教育育成のほか、河川熱(ツツガムシ病)、寄生性喀血病、脚気など日本の風土病の研究や、公衆衛生の重要性を説き、温泉療法、転地療法を提唱、草津温泉を世界に紹介し、逗子・葉山を始め相模湾沿岸地域を保養地として活用するよう政府に薦めた。明治十一年(1878)七月六日、ある役人が海水浴場創設を検討しているので海水浴場の適地として「七里ガ浜と称せられる海岸地帯の、片瀬に境を接する部分」を薦めたという記録(ベルツ著「ベルツの日記(上)」P84)が残っている。

ベルツによって広められた「保養の思想」の実践者となったのが明治政府の高官たちだった。1880年代以降、彼らは相模湾沿岸地帯に次々と別荘を設け、休暇を楽しむようになる。特に岩倉使節団に参加していた人々は欧州で大規模な保養都市でもあったブライトンの海水浴場を視察するなど、欧州の保養の思想に直接触れていたこともあって、海浜保養・別荘建設の先駆者となった。休暇の際に彼らが海水浴を楽しんだ記録が色々と残されている。藤沢市教育委員会編「湘南の誕生」によれば、明治政府高官の最初の海水浴の例は明治十六年(1883)八月十日、井上馨が富岡海岸で海水浴を行ったとする新聞記事で、同年八月十八日には元老院議官鍋島幹が浦賀で海水浴を行っている。明治十六年は井上馨、伊藤博文、三条実美、松方正義らが一斉に富岡に別荘を建設しており、保養と海水浴がセットで登場してきている。

長与専斎と松本順~海水浴場の開設

ベルツの日記の「海水浴場を設けようと計画」している「ある役人」が誰なのかは日記からは明らかではないが、同時期、内務省衛生局長として海水浴の効用を説き、積極的に海水浴場創設に動いていた人物がいる。長与専斎(1838-1902)である。肥前大村藩の藩医の家に生まれ、長崎で来日中のオランダの医師ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトの講義に参加、岩倉使節団に加わって各国の医療制度を視察し、帰国後、内務省初代衛生局長として日本の衛生行政の基礎を築いた。また無名の若手医師後藤新平を見出して内務省に採用したのも彼である。長与は、当時蔓延するコレラや結核など伝染病の対策の一環で、公衆衛生の重要性を知らしめるため、明治十四年(1880)、著書「海水浴説」で『本格的な西洋医学に裏打ちされた療法的な海水浴』(畔柳昭雄著「海水浴と日本人」P58)を提唱、明治十五年(1882)には実際に三重県二見浦に海水浴場を開設している。続く明治十六年(1883)、鎌倉由比ガ浜にも海水浴場を開設、長与によって海水浴場が日本に登場することになった。

長与とともに、医療行為としての海水浴の普及に貢献したのが初代陸軍軍医統監松本順(1871年まで良順:1832-1907)である。佐倉藩(千葉県佐倉市)の藩医の家に生まれ、長崎でポンペの助手として師事、文久三年(1833)に幕府の医学所頭取として若くして将軍家茂、慶喜の侍医となる。戊辰戦争で幕府軍軍医、奥羽戦争でも奥羽列藩同盟の軍医を務め、会津陥落後降伏。しばらく投獄されていたが、明治六年、山縣有朋に招聘されて初代陸軍軍医統監に就任、軍医制度の確立に尽力した。長与、松本ともに師事したポンペも海水浴の効用に注目しており、その教えを元に松本もまた海水浴場の建設に乗り出す。明治十八年(1885)、松本は大磯の照ヶ崎海岸に海水浴場を開設、やがてこの松本が開いた大磯海水浴場が海水浴ブームの中心となっていくことになる。

医療としての海水浴と水練としての海水浴

以上のように、日本における初期の海水浴は、海浜保養の思想を背景とした医療行為としての海水浴という特徴が強く、その実践者となったのは、政権の安定化によって一定の余暇を獲得するようになった明治政府の高官たちであった。彼らは海水浴が可能な海岸の近くに別荘を建設し休暇を楽しむようになる。次に、医療行為としての海水浴という特徴から、結核やコレラ等伝染病の治療を目的とした人々が海水浴に訪れ、その受け皿として海水浴場には療養施設が併設される。明治二十年(1887)、長与は由比ヶ浜海水浴場に鎌倉海浜院という療養施設を開設、以後各地の海岸沿いの一帯に結核などの療養施設が次々と作られる。

海浜保養・医療目的の海水浴に続いて、水練としての海水浴が登場する。江戸時代から武芸としての水泳が発展していたが、明治二十年代に入り、富国強兵の進展を背景として、第一に軍国主義的風潮の高まりによる国民的な水泳の奨励、第二に急速な産業化による河川の汚染による水練場の川岸から海岸へのシフトがおこる。明治二四年に学習院が両国から片瀬へ遊泳演習地を移転、明治三六年には慶応義塾が葉山へ、東京帝国大学が逗子へ水練場を開設あるいは移転させている。また日本体育会も明治三八年、隅田川沿いの水練場を大井海岸へ移転させた。

『こうして水練場が海水浴場に併設されることで、一般人を対象とした水練が行われるようになり、泳ぐことと海水を浴びることの一体化が進み、それが定着することで、わが国の海水浴場では泳ぐことを主体とした海水浴が行われるようになった。』(畔柳P25)

行楽としての海水浴

保養・医療としての海水浴と水練としての海水浴とが交わる過程で大衆による行楽としての海水浴が登場する。海水浴の行楽化の大きな要因となったのが鉄道網の整備である。神奈川について言えば、明治二十年(1887)、東海道線横浜=国府津間が開通、明治二十二年(1889)、横須賀線大船=横須賀間が開通、明治三十五年(1902)、江ノ島電鉄が開通し、東京からの身近な行楽地として相模湾沿岸地域が大きな注目を集めた。特に東海道線藤沢駅の開設によって大磯海水浴場が賑わい、鉄道会社も海水浴場や周辺の名所への行楽を盛んに宣伝する。やがて鉄道会社自ら海水浴場の開設や周辺施設の建設に乗り出し、神奈川を先駆として大正・昭和初期までに全国各地に海水浴場が建設されていった。

明治政府高官による別荘地での保養という側面から海水浴には高級なイメージが抱かれており、これが産業革命の進展によって台頭しつつあった中産・富裕層の間に憧れを生んだ。また鉄道会社や新聞社も海水浴の高級イメージをしきりに宣伝したから、余暇の誕生と鉄道網の整備による海水浴場への手軽なアクセスが、人々に海水浴ブームをもたらした。少々時代が下るが、昭和九年(1934)の観光客数のデータでは京都一千万人に対し、湘南地区だけで同じく一千万人で、箱根湯河原六百万人、横浜金沢八景五百万人、川崎多摩二百万人、三浦半島百万人(藤沢市教育委員会「湘南の誕生」P120)と、行楽としての海水浴が非常に浸透していることがわかる。

水着の登場

現代の海水浴では身体にフィットした水着を着用するが、このような水着の登場は明治末~大正初期を待たねばならない。黎明期の海水浴で人々はどのような格好で海水浴を行っていたかというと、男性は褌、女性は腰巻だけという入浴時と同様のスタイルか、一糸まとわぬ全裸というのが庶民では一般的である。大磯海水浴場の開設式典でも芸者たちが全裸で海に飛び込んだという記録が残っているし、全裸や褌、腰巻だけで海水浴を行う人々の姿を描いた絵画(ジョルジュ・ビゴー「日本人の生活」等)もある。上流階級の場合には、明治二十年代までは男性が海に入り、女性は浜辺からそれを見守るというのが多かった。

明治二十三年、初めての女性用水着が誕生する。上流階級の女性たちが着用したもので、西洋寝巻(ネグリジェ)風の、『上体は細袖の肌じゅばんかシャツ風、腰から下は足首までたれるスカート風のもの』(木村春生著「水着の文化史」P91)で、日除け帽をかぶり、せいぜい浅いところで水遊びをする程度のものだった。肌を隠すことに重点をおいたこの初期の水着と、裸体を晒して海水浴を楽しむ庶民という対比は、当時の裸体を巡る過渡的な観念を象徴していて興味深い。

前回の記事『「裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心」中野 明 著』で書いたように裸体を羞恥心の対象としない一般的な裸体観と、裸体の露出を禁止しようとする政府の政策を忠実に実行しようとする上流階級の人々という様子が垣間見える。女性の海水浴に対する厳しい目が投げかけられ、明治二十一年、神奈川県は海水浴場での男女混浴を禁止するが、海水浴客は年々増加し、女性たちも男性と同様に海水浴を楽しもうとする。時代を下るごとに、水着は発展し、明治末期、現代の水着のルーツとなるシマウマ水着が登場、大正から昭和初期にかけて海水浴が行楽の主流となるなかで、水着も大きく変化していった。

女性用水着の変遷(明治23年~昭和5年)
木村春生著「水着の文化史(1984年)」P98より

水着の進化は海水浴の一般化や女性の地位向上など当時の世相を少なからず反映している。

参考書籍
・畔柳昭雄著「海水浴と日本人
・藤沢市教育委員会編「湘南の誕生
・中野明著「裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心 (新潮選書)
・エルウィン・フォン・ベルツ著「ベルツの日記〈上〉 (岩波文庫)
・木村春生著「水着の文化史

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