伊藤博文の「皇太子は操り人形」発言と明治国家の儀礼の創造

先日の記事「近代日本、海水浴の誕生」で明治時代に日本の医療制度の確立に多大な影響を与えたドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツについて紹介したが、そのベルツの日記に、彼が侍医を務めた皇太子嘉仁(後の大正天皇)の結婚に関するエピソードとして、伊藤博文の発言が紹介されている。明治三十三(1900)年五月九日の日記より。皇太子の結婚は翌日五月十日のこと。

『一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをして見せたのである。――こんな事情をなんとかしようと思えば、至極簡単なはずだが。皇太子を事実操り人形にしているこの礼式をゆるめればよいのだ。伊藤自身は、これを実行しようと思えばできる唯一の人物ではあるが、現代および次代の天皇に、およそありとあらゆる尊敬を払いながら、なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想を、敢然と打破する勇気はおそらく伊藤にもないらしい。この点をある時、一日本人が次のように表明した。「この国は、無形で非人格的の統治に慣れていて、これを改めることは危険でしょう」と。』(エルウィン・フォン・ベルツ著「ベルツの日記(上)」P204)

伊藤博文のマンガにでも出てきそうな冷徹さ満点の言動がとても興味深い。現代なら中二病全開なわけだけど、当時の政治家・財界人は伊藤だけではなくみんなリアルでこんなこと言っていて、その発言の背景について理解をするなら、当然ながら中二病として片づけるわけにはいかなくなる。ベルツは伊藤が旧思想を打破する勇気がないとしているが、むしろ、『現代および次代の天皇に、およそありとあらゆる尊敬を払いながら、なんらの自主性をも与えようとはしない日本の旧思想』『皇太子を事実操り人形にしているこの礼式』を率先してつくりあげていたのが伊藤である。そういう意味で「旧思想」ではなく伊藤をはじめとする明治政府要人たちによる新しいシステムだ。

近代国家の建設に際して、明治政府の指導者たちは様々な国家儀礼を創出した。これは当時の国際関係の中で理解されなければならない。十九世紀中葉から二十世紀初頭にかけて、西欧列強では国家の威信を儀礼の壮大さでもって表す傾向が強まっていた。1870年頃から1914年にかけての時期は儀礼競争の時代と位置づけられる。英米露仏墺伊など列強ではこの時期様々な儀礼が創出されている。現代的な意味での諸儀礼に基づくイギリス王室の誕生もこのころだ。歴史家のエリック・ホブズボームが「創られた伝統」と称したのもこの時期に登場した様々な文化・儀礼・思想の総体である。

近代国家の建設にひた走る明治政府でもこの儀礼競争を無視することはできない。『日本の政治エリートたちは帝国主義の時代のなかで、壮観な国家のページェントを演じることによって西欧列強に劣らぬ特権的地位を築こうとしていたのである。』(T・フジタニ「天皇のページェント―近代日本の歴史民族誌から (NHKブックス)」P91)その例が、天皇制を形作る様々な儀礼である。明治天皇が巡幸し、日の丸が掲げられ、皇居が建設され、東京が整備され、明治憲法発布記念式典では神式の新しい儀礼に基づいて天皇が玉串を捧げたあと、皇后とともに英国風の馬車に乗って青山練兵場に向かう。明治憲法では天皇即位の儀式である大嘗祭が定められた。新設された皇居の内装・調度品はドイツ風で統一されていたという。

このような様々な儀礼の設計者が伊藤博文であった。伊藤は西欧の儀礼の調査を各国大使に命じ、その報告結果を集約して様々な儀礼を考案している。皇室の結婚式はその最たるものだ。宮内省官吏で東宮御婚儀御用係を務めた藤波言忠の「英国帝室諸例取調書」という報告書を元に、皇太子の結婚式を計画したのも伊藤である。

『伊藤は帝室制度調査局総裁として、「皇室婚嫁令」を草案し、一八九九年の皇太子嘉仁と節子妃との結婚式を計画した。明治の指導者たちがほとんど非情ともいえるほど皇太子を巧みに操ることについて、伊藤はあらゆる面にわたって実に率直な意見を表明しており、それは皇太子の結婚のさいにも変わることはなかった。』(T・フジタニP106)

伊藤博文はビスマルクに模されることが多かったというが、確かにこの冷徹さはビスマルク的だ。ドイツ人保守主義者のベルツを鼻白ませる程度に。ただ、このような天皇・皇族に対する冷徹な視点というのは伊藤に限らず明治政府の指導者たちの多くに見られる特徴で、彼らが形作った一種の国家幻想が、近代国家としての明治国家を完成へと向かわせることになる。

しかし、大正天皇というのはどうにも可哀相な、同情を禁じ得ない人物なのだよなぁ。確かに彼の不自由さは皇太子に生まれたが故の不運ではあるのだが、もし皇太子として生まれなければ、生来の病弱さからあれほど長生きできたかどうか、という点もある。

即位後の大正二(1913)年に大正天皇が詠んだ漢詩は切ない。

滞留湘南一月余  海浜涼気楽詩書
今日還入九重裡  苦熱真如在釜魚
晩来偶坐高楼上  遥対品海想釣漁
斜陽清風緑樹際  望見点々帆影舒

湘南(葉山御用邸)で過ごした一ヵ月の涼しい海辺での気楽な詩書の日々に比べて、今日還ってきた宮城での苦しさは釜ゆでされた魚のようだ、品川の海がわずかにあの楽しさを思い起こさせてくれると嘆いている。(藤沢市教育委員会編「湘南の誕生」P93より)

西欧列強と肩を並べるためにつくりあげようとしていたシステムの光と影を、何を犠牲にしようとしているのかを、おそらく伊藤は冷静に考慮していたはずで、冒頭の彼の発言は少なからず自嘲と露悪の雰囲気も感じる。皇太子を不幸な境遇に追いやることを自覚し、笛を吹いて躍らせる悪辣な側近者として自身をも位置づける冷徹さは、確かに凄みがある。

参考書籍
・藤沢市教育委員会編「湘南の誕生」
・エルウィン・ベルツ 著「ベルツの日記〈上〉 (岩波文庫)
・T. フジタニ 著「天皇のページェント―近代日本の歴史民族誌から (NHKブックス)

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