技術史からみた西南戦争

中岡哲郎「近代技術の日本的展開 蘭癖大名から豊田喜一郎まで (朝日選書)」に日本近代技術史から見た西南戦争について端的にまとめられていて面白かったので、簡単に紹介しておきたい。同書については同じく中岡哲郎「日本近代技術の形成―“伝統”と“近代”のダイナミクス (朝日選書)」、石井寛治「日本の産業革命――日清・日露戦争から考える (講談社学術文庫)」とともに日本近代の持続的経済成長(いわゆる「日本の産業革命」あるいは「後発工業化」と呼ばれる)の過程についてなんらかまとめたいと思っているので後日がっつり紹介するつもり。

戊辰戦争が終わり、明治新政府は富国強兵のスローガンの下、士族の解体から徴兵制の施行に至る国民軍の形成過程を突き進むことになるが、同時に各地に兵器工場の開設が計画された。明治三年(1870)に開設された大阪砲兵工廠もその一つで、後に東京砲兵工廠と並ぶ二大砲兵工廠へ発展していく。

さて、西南戦争は幕末明治を舞台にした多くのドラマで描かれるように一連の士族の冷遇による不満が背景にあるが、その引き金となった事件についてはドラマで描かれたのはまずみかけたことがないので知らない人も多いんじゃないだろうか。

当時陸軍の制式銃として採用されていた小銃が英国製の元込式旋条銃「スナイドル銃」であった。スナイドル銃は従来の先込式と比較して五~十倍の発射速度を誇り、歩兵部隊の攻撃力を画期的に高めるものだが、明治十年(1877)当時、その弾薬の製造供給はほぼ鹿児島の属廠(砲兵工場)が独占していた。政府はこの製造装置を鹿児島から大阪砲兵工廠へ移設させるべく、同年1月に秘密裏に搬出を行う。これが薩摩側の怒りを招き、士族らが属廠や火薬庫を次々と襲撃して武器弾薬を奪取、かくして西南戦争の幕が切って落とされる。最初から火器「補給」のイニシアチブを巡る戦争として始まった。

『(前略)技術史の角度からいえば、圧倒的な火力補給力が戦局を左右することを日本人が体験した最初の戦争といえる。戦争中に、輸入も含めてではあるが、約五万二〇〇〇挺の銃と、四七〇〇万発の銃弾、五万三〇〇〇発の砲弾が政府軍に送り込まれ、その半分以上が使用された。対する薩摩側の使用した量は、およそ銃一万挺、銃弾三〇〇万発であった』(P120)

すなわち近代日本において、『弾薬「工場」生産力の差が勝敗を左右した最初の戦争』(P120)が西南戦争であるという。

以前も書いたように、西南戦争の戦費は明治政府に重くのしかかり、酷いインフレを起こして政府を危機的状況に追い込む。その影響はあとあとまで残ることになるのだった。近代戦争を勝ち残るだけの工場生産力、補給力の確保が至上命題となって、「富国強兵」は富国の結果としての強兵というよりは強兵のための富国という面を強めつつ進められる。

また西南戦争の体験が後々まで陸軍の戦術を呪縛するという指摘もまた重要だろう。

『彼らがこの戦いで心に刻んだものが、以後の陸軍の戦術の核となる。小銃戦の重視、大砲では機動性の高い軽量の野・山砲の重視、陣地戦の最終段階は銃剣を抱えた突撃による白兵戦で決着をつけるという、昭和期まで続く陸軍の戦術の体質は、西南戦争に根をもつ』(P120)

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