フィボナッチの登場、レヴァント貿易の隆盛、複式簿記の誕生、そして十六世紀欧州の数学革命

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レオナルド・フィボナッチ

『インドの九つの数字は9、8、7、6、5、4、3、2、1である。これら九つの数字とアラビアではzephiriumと呼ばれる記号0でもって、以下に示すように、任意の数字を表すことができる。』

(山本義隆著「一六世紀文化革命 1」P318よりレオナルド・フィボナッチ著「”Liber abaci”算数の書」(1202年:未邦訳)冒頭の山本による邦訳を孫引き)

この一節で始まる1202年の数学書「”Liber abaci”算数の書」の発行が世界史上の画期であることは誰しもが認めるところだろう。商人で数学者のフィボナッチことピサのレオナルドは、本書でアラビア数字のイタリアへの導入、同時にそれらを用いたイスラム社会の十進法での整数と分数の計算方法を解説、最初の回帰数列であるフィボナッチ数列の考案、歴史的には修辞代数に分類される代数学の提唱などをまとめ、当時の商業数学の集大成であると同時に革新的な、あまりにも革新的な数学書を書き上げた。後に1225年の著書「フロス」では三次方程式を解くには至らないまでも六十進法で解の近似値が求められ(三次方程式が解かれるのは三百年以上後のことになる)、同年の「平方の書」では商業数学とも当時の主流である形而上学的な数論とも無縁な「純粋数学」の道を切り開いたとされる。

だが、彼の理論はあまりにも早すぎた。『中世からルネサンス期にかけての知識人の世界では、数学への関心がもっぱら新プラトン主義を背景にした哲学的な、というよりむしろ神秘的なものであった』(山本P323)から、『アカデミズムの世界では実用数学・商業数学は(中略)そもそも学的対象とはみられていなかったのである』(山本P323)。ゆえに、『当時のアカデミズムの世界でのフィボナッチの評価は低く、大学ではほとんど無視されていた。』(山本P323)

彼の影響は、大学では無く実際の商取引・商人の育成の場に現われる。現存する史料のうちもっとも初期のものとして1290年に『フィボナッチの「算数の書」を下敷きにした算数書』(山本P329)が作られており、それ以後もテキストは『すべて、基本的にフィボナッチの書をひな形としている』(山本P329)およそ十五世紀末まで二世紀に渡り、フィボナッチの成果は、アラビア数字を浸透させ、商業技術の発達の基礎知識として広く根付き、十六世紀、一気に数学革命と呼ばれた数学史上特筆される飛躍的進歩をもたらすことになる。

フィボナッチの登場も、その理論がまず実際の商取引の場で採用されていったのも、十一世紀~十五世紀の地中海貿易の発展が背景にある。

イタリア商人の台頭と地中海貿易

十世紀頃まで地中海貿易の主導権を握っていたビザンツ商人・イスラム商人に代わって、十一世紀に入ると、十字軍遠征以降、十字軍への物資補給やビザンツ帝国への支援などで台頭したヴェネツィア、ピサ、ジェノヴァ、アマルフィといったイタリア港湾都市が地中海貿易において有利な地位を築いていく。

十三世紀に入るとイタリア商業は飛躍的発展を遂げる。1204年、第四回十字軍によってビザンツ帝国に代わってコンスタンティノープルに十字軍国家ラテン帝国が樹立されるとイタリア商人は黒海に進出を果たし、以後、モンゴル軍の襲来、ラテン帝国の崩壊、オスマン帝国の伸張の中で弱体化したビザンツ帝国においてヴェネツィア・ジェノヴァ商人が経済の実権を握り、東西商業の要衝としての黒海市場から利益を獲得し続ける。一方、レコンキスタの進展で拡大するイベリア半島諸国との関係を深め、十字軍の費用集めに奔走する教皇に取り入って教会の徴税人となるなど黒海沿岸から欧州に至る広い地域に進出、地中海一帯の商業交通を独占した。

これらの発展はシリア・エジプトなどイスラム世界やインドなど東方の様々な産物「胡椒・香辛料・絹織物」を取引するレヴァント貿易(東方貿易)によって支えられていた。その十三世紀後半のイタリア商業の特徴として、遍歴商業から定着商業への変化がある。

『遍歴商業では、商人は商人仲間と隊商をくみ、商品とともに目的市場まで旅行(遍歴)し、その販売代金で購入した商品を、今度は母市まで持ち帰る。定着商業では、商人は旅行せずに母市や特定市場にとどまり(定着)、各地に設けた代理人(ないし支店)に指示して、現地市場で自分にかわって取引してもらう』(北原敦編「イタリア史」P206)

この変化は様々なものを生み出した。まず海上保険が登場して海上運送のリスクヘッジがなされ、各地の代理人・支店と商人との間の商業通信が発展する。遍歴商業での企業組織は出資者が資本を商人に委ねて商業旅行の完結によって得られた利潤を分配することによって解散する。一方で定着商業になると『数人の会社仲間が資本をもちよって企業を設立し、役割を分担して経営にあたり、社員を雇用して労働させ、えた利潤を会社契約に従って分配』(北原P208)する企業組織「会社(コンパニーア)」が登場する。コンパニーアは一つの取引が終了しても解散せずさらなる出資を行ったり資金を借り入れるなどして永続的に組織を維持し会社規模の拡大へと向かった。

複式簿記の誕生とアラビア数字の浸透

取引の複雑化・大規模化と会社組織の誕生は、商業数学の発展を促す。十三世紀後半、イタリアで現在まで企業会計の根幹である複式簿記が登場する。渡邉泉論文「単式簿記は複式簿記の萌芽なのか――会計の本質との関係について――」によると、複式簿記の誕生を促した生成要因は(1)信用[取引] (2)組合[企業](3)代理人[業務]であるという。すなわち、信用取引の誕生により後日の決済に向けた証拠書類の必要性、企業運営に際して利益分配のための企業損益計算の必要性、支店・代理人が本店に対して財務状況を報告する必要性から、複式簿記が生み出されたのだとされる。

『信用取引は、トラブルが生じたときの文書証拠ないしは公正証書としての記録を発生させ、組合企業は、組合員相互間の利益分配の手段として作成されたビランチオ(引用者注:十三世紀イタリアで作成されていた棚卸に基づく利益処分目的の財産目録)を日々の取引記録によって証明するために損益計算機能を生み出し、代理人業務が受託者から委託者あるいはパートナーへの、後世になってからは、経営者から株主や債権者に代表される利害関係者への報告の義務を生じさせた。信用取引によって生じた記録は、仕訳帳を生み出し、期間組合の出現により損益計算の必要性が元帳への転記を余儀なくさせ、その成果報告のために初期においては集合損益勘定や決算残高勘定が、後になって損益計算書や貸借対照表が歴史の舞台に登場してくる。
これら三つの生成要因が出揃うのが13世紀のイタリアであり、ここに複式簿記が誕生したのである。』(渡邉同上論文)

複式簿記の誕生を促すほどに複雑化・高度化した商取引で、ラテン数字(ローマ数字)にかわってアラビア数字が使われるようになるのは必然であった。MDCCCLXXXVIII-CDXCVと1888-495、いくら使い慣れていると言っても前者より後者の方が格段に簡単に求められるというのは一目瞭然であろう。

『実際、ラテン数字による計算よりアラビア数字による計算は格段に早く、そのうえ算板による計算にくらべて手計算では計算と記録の作業が統合されているので検算が容易になるという大きな利点を有していた。』(山本P330)

十四、五世紀までに商業数学においてアラビア数字はラテン数字に取って代わり、イタリア各都市や組合は商人育成の算数学校を次々と作って商業数学や複式簿記を教授していた。かの有名なレオナルド・ダヴィンチも子供の頃、算数学校で学んでいる。

十六世紀欧州の数学革命

数学革命は1494年、ルカ・パチョリによる「算術、幾何学、比および比例大全」の発行により始まる。フィボナッチ以来三百年の様々な商業数学の発展の集大成となった本書は『「世界ではじめて複式簿記を詳述し、印刷し、出版した」書物として』、『商業簿記の普及に大きな影響を及ぼし』(P343)た。『パチョリは簿記の技法を近代科学に押し上げたのであり、その意味で「会計学の父」の名に値する』(山本P344)という。

十六世紀に入ると、数学上の発見・進歩は加速度を増す。

パチョリに先んじること十年、1484年、フランス商業都市リヨンでニコラ・シュケーは著書「三部分」で省略記号を用いた。すなわち足し算(plus)をp、引き算(moins)をm、平方根をR2として表し、また方程式の係数および解に負数を認めた。1489年、ドイツのバンベルクで出版されたヨハン・ウィッドマン著「すべての商業のための手早くて巧みな計算法」において、『+(プラス)と-(マイナス)が――過剰と不足を表すものとして――はじめて使用され』(山本P357)る。

1535年から1545年にかけて、ヴェネツィアの数学技師タルターリア、医師ジローラモ・カルダーノとその弟子ロドヴィコ・フェラーリらの数学勝負を通して三次方程式の解が求められ、その証明を行ったカルダーノの著書「大技法ないし代数学の規則」をもって近代代数学が始まる。カルダーノはまた複素数を発見者としても名を残すが、カルダーノ自身は複素数解を認めていなかったという。ボローニャの建築技師ラファエロ・ボンペッリが1557年から60年にかけて執筆した「算術の主要部分としての三巻に分けられた代数学」(1572年刊)によって複素数を用い、『虚数にたいする演算規則を与えて、カルダーノの逢着した困難に一応の解決をもたらした。』(P378)すなわち、『商業数学として発展してきたイタリアの算数(abaco)とそこから生まれた代数学を我が物にし、かくして代数学を独立した数学の一分科として確立させた。』

1585年、オランダの水利技術者シモン・ステヴィンの著書「十分の一法」によって十進小数が提唱される。角度などで使われる六十進法に基づく小数に対比して考案されたもので例えば3.1415は3⓪1①4②1③5④というように表記された。彼は当時の様々な分野で使われる単位が二進法・三進法・五進法・十二進法・六十進法などバラバラであったものに対して十進小数を考案することで経済的合理性の観点から十進法への統一を提唱、『インド・アラビア数字導入以後の算術におけるもっとも重要な発展』(山本P386)と評価されている。

以上のような十六世紀欧州の一連の数学の革新は、十七世紀、デカルト、ガリレオ、ケプラー、ニュートンらによる様々な発見による近代科学の成立を大きく促す土台となった。

参考書籍・論文
・山本 義隆 著「一六世紀文化革命 1 第五章 商業数学と一六世紀数学革命」P311-390
・北原 敦 編著「イタリア史 (新版 世界各国史) 第五章 二つのイタリア(斎藤寛海著)」P147-211
・中岡 哲郎 著「近代技術の日本的展開 蘭癖大名から豊田喜一郎まで (朝日選書) 第二章 レバント貿易から産業革命まで」P26-35
・渡邉 泉 論文「単式簿記は複式簿記の萌芽なのか――会計の本質との関係について――
・泉谷 勝美 論文「デル・ベーネ商会の損益計算実務

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