「小田原合戦と北条氏 (敗者の日本史 10)」黒田 基樹 著

天正十八年(1590)七月、北条早雲(伊勢宗瑞)以来およそ百年に渡って関東を支配した後北条氏は豊臣秀吉率いる二十万以上の大軍勢によって難攻不落を誇った居城小田原城を囲まれ、抵抗むなしく滅亡した。本書は織田信長の横死による旧武田氏遺領の関東織田分国統治体制の崩壊から関東の騒乱「天正壬午の乱」をへて小田原合戦へと至る北条氏を中心とした戦国末期の東国外交を丁寧に整理した一冊である。

東京・神奈川在住で城郭・神社を始めとした名所旧跡めぐりや地域史の探究を趣味としている自分としては後北条氏には非常に思い入れが深い。領国支配体制にしても、軍事機構にしても同時代の例えば上杉・武田などの戦国大名と比べて非常に進んでいた。小田原攻めは旧時代を代表する後北条氏の滅亡による新時代の幕開けという構図で捉えられがちだが、むしろ、戦国大名の中でもその統治体制はかなり先を行っていたと思う。では、なぜ後北条氏は滅びたのだろうか。

実のところ、その問いの答えは後北条氏の研究では未だよくわかっていないことの一つだ。滅亡へと至る様々な過程の中にいくつかの要因を見出すことはできる。本書で詳述されているのもその滅亡へと至る北条氏を中心とした諸勢力の思惑と外交の過程だ。『要因を特定するという思考方法』から距離を置いて、『結果にいたる一つ一つの事実を確認し、その関係性を明らかにすることであり、それをその時代状況の中で理解し、把握する』(P235)ことを重視したと著者が言うように事実関係が整理されてプロセスが非常にわかりやすい。

東国の騒乱という複雑怪奇な外交のモザイクの一つ一つが組み合わさっていく中で、1582年から1590年までのわずか8年で、後北条氏は開戦以外の選択肢が無くなっていった、あるいはわざわざ開戦という道を選びとっていった。その過程での後北条氏の外交姿勢は戦国大名の振る舞いとしては特段おかしなものではない。ただ、当主である北条氏政・氏直の一つ一つの決断が、当時の周辺状況と組み合わさるとき、滅亡への道が準備されていく。なぜ沼田領領有に拘ったのか、なぜ徳川と北条はともに秀吉と対峙しながら明暗が分かれたのか、なぜ臣従を表明しつつも氏政は上洛を先延ばしにしたのか、なぜ重臣猪俣邦憲は名胡桃城を襲撃したのか、後北条氏の滅亡という最期を知る者から見た本書で描かれる外交過程から浮かび上がる一つ一つの問いに、戦国時代とはなんだったのかという大きな問いが浮かび上がってくる。

著者もこう問うている。

『なぜ列島は、戦国大名国家並列状況のままでいることはできなかったのか。』(P235)

著者は小田原合戦を秀吉の関東惣無事令との関係で展望している。

中世というのは自力救済の社会である。諸勢力同士、利害対立は最終的に武力によってのみ解決される。その紛争を抑止し仲裁する機能を担うために武家政権は誕生し、権威を保つことができた。その仲裁機能を幕府が失うと、乱世が訪れる。戦国大名の戦争の背景にあるのは単純な領土拡大欲よりは、『互いの境目にある国衆同士の戦争があった』(P231)という。やがて大小さまざまな勢力の利害対立をより大きな力で抑え込み、あるいは仲裁して解決に導く機能として戦国大名が登場してくる。戦国大名は支配下の国衆同士の紛争を禁止し、またその対立を権威と武力でもって仲裁し、あるいは裁判の仕組みを整えて平和裏に解決に導くことで国衆を従え領国支配を確立してきたのである。

そして、その様々な戦国大名が大なり小なり確立してきた領国支配体制の延長線上に秀吉の「惣無事令」がある。秀吉の天下一統は『戦国期までの自力救済の社会から、その後の禁制における、それが凍結された社会への転換の過程として把握』(P228)され、それは、『諸国の戦国大名同士の抗争を、私的な領土紛争として位置付け、停戦を司令するとともに、領土問題については自身が裁定を行うとし、それを受け容れない場合には討伐する、という論理によって展開された』(P228)。この論理が歴史上「惣無事令」と呼ばれる。秀吉のそれが旧来の戦国大名と違うのは、『いまだ自身に従属していない大名に対しても、呼びかけられていた点』(P231)にあるという。

『小田原合戦とそれに至る過程というのは、羽柴秀吉と北条氏との対立と妥協、最終的な決裂による合戦の展開という、両者間の問題にとどまるものではなく、それは同時に秀吉による「関東惣無事」の実現の過程にあたっていた。』(P228)

多くの戦国大名はその過程で滅びずに命脈を保ったが、北条氏は滅びることになった。滅びへの道はいかにして舗装されていったのかを把握する上で是非読んでおきたい一冊だと思う。

余談、常々思っていることなのだが、北条氏の家臣団の中でも北条氏規は高く評価されていい。氏規は北条氏康の五男で、北条家の水軍を束ねると同時に氏政・氏直時代の外交を一手に担った人物だ。功績を挙げればきりがないが、外交面では天正十年の徳川との軍事同盟の締結、秀吉への臣従交渉を進め、最後まで戦争回避に尽力、秀吉・家康ともに氏規に高い信頼をよせていた。また小田原合戦では伊豆韮山城主として福島正則・蜂須賀家政ら五万の軍勢の猛攻をわずか500で耐え凌ぎ、支城が全て落とされたあと徳川家康自らの説得で開城、小田原城開城後九日も堪えた忍城は別格としても、氏規の善戦は小田原合戦中非常に高く評価されている。降伏後は氏政・氏直に降伏を薦め、小田原戦後、高野山に追放された氏直に同行。これまでの仲介の功績を認められて秀吉の直臣大名となり、嫡流の氏直死後、氏規の子氏盛が氏直の養子となって氏規と氏盛あわせて河内狭山一万石の大名家となり、幕末まで生き残ることになる。真田家における信之(信幸)みたいなもので、非常に有能かつ手堅いのだが何かと影に隠れがちな人物だと思う。

参考書籍
・下山 治久 著「戦国大名北条氏―合戦・外交・領国支配の実像 (有隣新書)

最近出たばかりの下山先生のこれもコンパクトにまとまってておすすめ。

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