十六~十七世紀、海を渡った日本人~倭寇、奴隷、傭兵、朱印船、キリシタン

十六世紀から十七世紀、戦国時代中期から江戸時代初期にかけて、多くの日本人が海を渡り、東南アジアから東シナ海にかけて様々な活動を行った。海を渡った日本人はどのような人々だったか、大きく(1)倭寇(2)武士・雑兵(傭兵・奴隷)(3) 商人・労働者(4) キリシタンの四つに分けられる。もちろん、分けられると言ってもその境目は厳密ではない。むしろ、その重なり合っている様がまた時代性を表してもいる。

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(1)倭寇

倭寇とは何か

倭寇の活動は大きく二期に分けられる。前期は高麗で史料上倭寇という言葉が頻出しはじめる1350年ごろから十五世紀末にかけての時期で、1375年ごろから活動が頂点に達し、朝鮮半島沿岸を襲い、略奪・殺戮を繰り返した。最盛期には300~500艘の船団を形成し、千数百の騎馬隊と数千人の歩兵を乗せ女性や子どもを伴っていたという。1419年、倭寇の根拠地となっていた対馬に李氏朝鮮が大規模な討伐軍を派遣するが撤退(応永の外寇)、その後、李氏朝鮮、対馬宗氏、足利政権の倭寇対策によって衰退し、十五世紀末までに活動は沈静化していく。

前期倭寇の構成員については諸説あって定まっていない。朝鮮側の史料に三島倭寇という記述があることから対馬・壱岐・肥前松浦地方の人々が中心であったとも、禾尺・才人と呼ばれる朝鮮半島の被差別層が倭族と連合していた(田中健夫説)ともいわれ、近年では田中説への批判として村井章介氏から、倭寇の倭は必ずしも日本と同定できず、当時、戦国時代の日本、高麗末期の動乱の朝鮮半島などの変動を背景にして東シナ海一帯に国家や民族の枠組みを超えた帰属の曖昧な人間集団が形成されてきており、そのようなマージナル・マンの活動が倭寇と呼ばれていたとする説が出されている。また、この村井説への批判もある。

後期倭寇は十六世紀初頭から末にかけて登場する。海禁政策を取る明と室町幕府との貿易は室町幕府が冊封を受けて勘合符を与えられて行う日明貿易が中心であったが、1523年、日明貿易を独占していた大内氏と対立深める細川氏も対抗して使者を送り、明の寧波で両者が衝突、外交問題となって日明貿易が中断される。1536年に大内氏によって復活されるも、1551年、大内氏は陶晴賢の反乱によって滅亡、以後貿易は密貿易の形をとることになった

明は一貫して海禁政策を取っていたが、浙江、福建、広東などの貿易商人が、郷紳と呼ばれた地方地主層の支援の下で日本との密貿易をおこない、日本側も博多商人などを中心に密貿易を盛んにおこなうようになる。さらに、当時、東南アジア一帯に進出してきたポルトガル人が、明に通交を求めるも、丁度武力制圧されていたマラッカ王からの情報もあって拒否され、彼らも密貿易に参入する。アジア貿易にポルトガル人が加わることで貿易ネットワークは急速に拡大する。くわえて、石見の大森銀山の発見(1526)を始め日本で銀生産が急増したことも、倭寇の活動を促進した。

中国・ポルトガル・日本を中心とした無国籍密貿易商の武装集団が後期倭寇を構成していた。日本人は全体の二割程度だったとも言われる。

倭寇の頭目王直とアンジロー

ここまでみてもらえばわかる通り倭寇がなに人であったかというのはあまり意味がある問いではない。例えば、後期倭寇の代表的な人物王直(?-1559)である。王直は浙江の双嶼を根拠にしていた海賊許三兄弟の会計係として頭角を現し、1540年から広東を中心に日本・シャム・インドシナ諸国との間で密貿易を行い財を築く。1542~43年アユタヤでポルトガル人脱走者三人を乗せて中国に向かう途中で暴風雨にあい、種子島に漂着、歴史上名高い鉄炮伝来となった。その後、倭寇の頭目として五島列島に本拠地を置き、大友宗麟らと交流、1559年、明政府におびき出されて捕縛、処刑された。

あるいは、ザビエルの弟子となった日本人アンジロー(1511or12-?)である。倭寇の例に出すよりキリシタンの例とする方が妥当かもしれないが、アンジローは元は鹿児島の商人で、理由は不明だが殺人を犯してポルトガル商人の手引きで国外に脱出、マラッカでザビエルに出会い洗礼を受けると、その後インドのゴアでキリスト教・語学教育を受け、1549年、ザビエルの日本宣教に従って帰国、通訳として働いた。ザビエル離日後、鹿児島の信徒のまとめ役を任されていたアンジローは、詳細は不明だが再び日本を脱出、その後の足取りについては諸説あるものの、中国に渡り倭寇となって戦いの中で死んだという説が有力だ。(関連記事「「ザビエルの同伴者アンジロー―戦国時代の国際人」岸野 久 著」)

王直にしろ、アンジローにしろ、彼らの行動はその非境界性によって特徴づけられている。これは数多の倭寇の活動に加わった人びとに共通するものだ。そして、この倭寇の非境界性は、当時、海を渡った人びとに共通する特徴でもある。

(2)武士・雑兵(傭兵・奴隷)

戦国時代の人身売買

戦国時代の奴隷狩りについては以前記事「戦国時代の日常茶飯事「掠奪・奴隷狩り・人身売買」について」にまとめた通り、人取り、乱捕りなどと呼ばれて日常的に行われていた。雑兵たちが戦争に参加する目的は掠奪による戦利品の取得であり、戦国大名たちもそれを認め、また自らも身代金目的の戦争捕虜の売買を行わせていた。戦争には商人たちが随行しており、身代金が払えない戦争捕虜は商人を介して奴隷として売られることになる。

国内の商人によって九州に送られた奴隷たちは、主にポルトガル商人によって海外に輸出、東南アジア各地で労役・軍役に就いた。奴隷売買はポルトガル人だけでなくシャム人、カンボジア人の商人が行っていたという。また日本も、例えば織田信長に仕えた黒人奴隷の話は有名だが、海外からの奴隷が輸入されて各地で労役に就いている。1556年の大隅地方の港町高須では、『唐人男女二、三〇〇人がここに居住し、髪を剃り、裸足で牛馬を牧しているが、満腹する食事を与えられず、衣服で体全体を覆うことができず、脱走する人あれば、巡兵が首を斬り献上する』(永積P25)という記録があるし、秀吉の朝鮮出兵でも『掠奪連行された人々は島津領の薩摩だけでも三万七〇〇〇余人はいた』(藤木P66)という。

倭寇・商人による奴隷売買ネットワークが東アジア・東南アジア一帯に広がっており、看過できない状況へと進んでいたようで、1570年代から戦国大名たちも人取の禁止を政策に取り入れ始める。以後、豊臣政権もポルトガル王も、体制側は一貫して人身売買の禁止の命令を各地に出し、これに商人たちが奴隷に依存する地元勢力と組んで抵抗を示すという構図が展開される。

求められる日本人傭兵

1590年、豊臣秀吉によって伴天連追放令の中で人身売買禁止が定められ、同年の海賊禁止令、刀狩令など一連の政策によって国内の戦争が終結を見ると、国内で活動の場を失った雑兵たちは次々と海外へと進出していった。スペイン領ルソン島のマニラには1593年には3~400人、95年には1000人の日本人が居住していたという。特に日本人に求められたのがその高い戦闘能力である。

1595年、一世紀近くポルトガルの独壇場となっていた東インド地域に遂にオランダ船が到達する。オランダは本国ではネーデルラント独立戦争(八十年戦争:1568-1648)でスペイン=ポルトガル(1580年スペインが併合)と戦っており、その対立を背景にポルトガルの独占を突き崩そうと、モルッカ諸島(香料諸島)を巡って度々軍事衝突を起こしはじめる。スペイン・ポルトガルに対するオランダ、さらに遅れてイングランドが参入しての東インド地域を巡る紛争が展開、その際、諸勢力が貴重な戦力として最重視したのが日本人傭兵の確保であった。

1612年、オランダ船のブラウエル司令官は幕府の許可を得て水夫・兵士三百名を海外に連れ出した。同じ時期、オランダ平戸商館長ヤックス・スペックスも日本人70人を送り出したと報告している。1616年、平戸で大阪出身のクスノキイチヱモンを頭人とする59人の三か年の傭兵契約結ばれ、モルッカ諸島・アンボイナ島などオランダの拠点に配属された。日本人傭兵の総数はわからないが現地で雇用されたものも含めて相当数の日本人傭兵が、当時植民地獲得戦争や内乱の鎮圧などに用いられていた。

平戸商館長スペックスの日本人傭兵に関する発言(1620年)が残っている。

(1) これまでモルッカで行われていたように、契約期間以外の俸給の支払いや、資格の格上げは行わず、ただそれに値する人にかぎって、ときどきわずかな贈り物をすること。
(2) 外地では日本人は大体固まってしまうが、彼らを固まらせず、無為に過ごさせず、働かせるように。
(3) 日本人は狭隘な場所で黒人にたいする戦闘に用い、彼らを優しく扱うが、悪意のある者には正しく厳格な処罰を行い、従順にさせなければならない。(永積P43-44)

また、スペックスは『彼らがいったん国を出ると、彼らを統率するのは危険となる。彼らは思いのままにならなかったり、ひどく扱われたりすると、すぐに絶望的な決心をするからである』(P38)と、扱いの難しさを語ってもいる。「絶望的な決心」と聞くと現代人から見ると落ち込んで自殺したりするのかな?などと思うかもしれないが、そうではなく上官を切り殺したり集団で叛乱を起こしたりなど反抗して暴力行為に及ぶということだ。戦慣れしている分手が付けられなくなる。一方で戦争にあっては「狭隘な場所で黒人にたいする戦闘に用い」などとあるように傭兵としてこの上なく頼りになるから、使う側はかなり苦労したようだ。

アユタヤ朝と山田長政

欧州諸勢力だけではなく、東南アジア諸国でも日本人は傭兵として雇用された。特に名高いのがシャム(タイ)のアユタヤ王朝に仕えた山田長政(1590?-1630)である。長政は駿河沼津家の大久保忠佐の六尺(駕籠かき)であったというから足軽以下の小者で武士というよりは雑兵に近い。1612年頃にシャムに渡って傭兵隊の一員として頭角を現し、ソンタム王の信を得て日本人部隊「クロム・アーサー・ジープン(日本人義勇組)」の指揮官ならびに日本町の頭領として権力を振るった。アユタヤの官僚機構は、通常の行政官僚とは別に、国王直属の専門職集団がおり、日本人部隊を始め、中国人貿易担当者、ポルトガル人鉄砲隊、インド移民などみな外国人で構成されていたという。その直属の専門職集団を持っていたことが国王を絶対君主へと上昇させていた。

当時のアユタヤは中継貿易港として栄え、日本人だけではなく中国人、ポルトガル人、マレー人、トンキン(ベトナム北部)人、コーチシナ(ベトナム南部)人、カンボジア人などそれぞれ居留地を築いて商人が行きかっていた。特に鹿皮や蘇木などが重要な輸出品として日本や中国に送られている。また対オランダ、対琉球貿易も盛んだった。さらに豊かな森林資源を背景に造船業が盛んで、当時の商船はシャム製ジャンク船が占めていた。徳川幕府で始められた朱印船貿易でも日本の商船の多くはシャム製であった。日本人商人がシャム製ジャンク船を購入して日本に送る記録が多数残っており、『アユタヤでは日本人に売る目的で、多くのジャンクが建造されていた』(永積P61)

山田長政も徳川幕府から朱印状を得ようと長崎に自身の商船を送ったり、マラッカに米を輸出するなど、手広く貿易を行っており、傭兵隊長・アユタヤ朝の高官としての顔の他に商人としての顔も持っていた。1628年、ソンタム王の死によって長政が邪魔になったソンタム王の従弟オークヤー・カラーホームによってリゴールの太守に左遷され、1630年に暗殺された。アユタヤ王位継承をめぐる対立は長政の死によって先鋭化しはじめ、日本人町の焼き討ちが行われるなど混乱、さらにこの混乱は徳川幕府にも伝わり、シャムとの貿易が途絶えることになった。王位継承紛争を収拾したプラーサート・トーン王は日本との貿易再開を願って日本人町を再建したが、その後の鎖国政策への流れもあって直接貿易は再開されず、シャムは対日貿易においてはオランダ・中国商人による中継点としての役割へと変わっていく。

元和六年(1620)七月、オランダ・イギリス連合艦隊は日本に密航しようとしたスペイン人宣教師を幕府に突き出すとともにスペインの拠点マニラとポルトガルの拠点マカオへの攻撃への援軍を依頼、これに対して幕府は拒否すると、続けて元和七年、武器・奴隷・傭兵の禁輸令を出した。すでに平戸は両国の武器・糧食供給拠点と化していたからオランダ・イギリス両国は驚いてオランダ東インド総督名で『日本貿易が制約されないよう、将軍に請願を重ねよ』(藤木P279)と日本の商館に指示を送っている。

徳川幕府の対外不干渉主義はその後も貫かれて、やがて鎖国政策へと舵を切り始める。

(3) 商人・労働者

傭兵や奴隷としてだけではなく、一般的な労働者としても多くの日本人が海外に向かっている。職業も水夫・大工・鍛冶など幅広く、一定の契約期間でオランダ人などに雇用されて働いている。一方で、傭兵のところで紹介したように、契約上のトラブルや職場での人間関係などで問題があるとすぐに暴れたりして、オランダ人を悩ませており、自己主張の激しい当時の日本人像が浮かび上がる。

朱印船貿易のはじまり

そんな労働者たち以上に東南アジア一帯に根を張ったのが商人たちであろう。商人と言っても倭寇のところでも書いたように倭寇とは武装商人のことであり、また商人はみな武装しているのが常であったから、海賊と商人とは表裏一体である。その中で商人とそれ以外を分けるのは当時中国やオランダ、そして遅れて日本の各政権が発行した通行証の有無だ。明国政府が発行した文引、ポルトガルが発行したカルタス、そして豊臣・徳川両政権が発行した朱印状は、アジア海域全体でその権威を認められて航行の安全を保障し、倭寇と区別する証明書として働いた。

豊臣政権時代の朱印状について存在を証明する確固とした史料は無いが、概ね各種の史料を総合した場合、『一五九四年から一五九六年までの秀吉時代に朱印状の発給がはじまった』(永積P5)と考えられている。徳川時代に入ると、慶長九年(1604)から家康はアジア諸国に日本の平定と朱印状の発行を知らせる外交文書を送りはじめており、以後商人に対して家康時代(1604-1616)に195通、秀忠・家光時代(1617-1635)に161通が発行され、朱印状を得た商人はアジア各地に船を出して朱印船貿易の時代が始まった。

ところで、朱印状を得たのは船主・船長ではなく、企業家たち、すなわち『朱印状を下付されるための才覚があることはもちろん、船を艤装し海外に送る資金を集めるだけの能力と信用がある人』(永積P231)たちである。ゆえに商人だけでなく島津氏、細川氏などの大名や長崎奉行など役人も多く含まれているし、またオランダ人ヨーステン、イギリス人ウィリアム・アダムズなど日本人にも限らない。朱印状を得た企業家は朱印船を出すための資金を広く集めるが、そこに投資した人々は大名や商人だけでなく幕閣の要人たちも含まれている。このあたり、同時代に英国エリザベス女王がシンジケートを通して海賊・商船に資金を投下していたのとよく似ている。

代表的な朱印船貿易商人としては、シャムに定住してオランダ東インド会社と取引していた元有馬晴信の家臣と考えられる与右衛門、マニラに定住しスペイン語に堪能で家康にも信頼されて日本-ルソン間の貿易促進を薦めた元肥前大村氏の家臣キリシタン商人西ルイス(類子)、長崎奉行長谷川藤広はオランダ人から「将軍の買物掛」と呼ばれるほどコーチシナ貿易に携わり、現地に手代を置いて生糸などを中心に手広く貿易を行った。その長谷川藤広の養子であった三代目茶屋四郎次郎はトンキン貿易で財を成す。台湾中継貿易を独占したのが摂津平野の代官平野藤次郎正貞で、平野は幕閣に食い込み、家光から天皇への贈り物も彼が貿易を通じて手に入れた海外の品々であったという。

十七世紀東南アジアの経済戦争

朱印船商人は東南アジア貿易でオランダ商人、ポルトガル商人、中国商人などと激しい競争を演じた。特に朱印船が市場を確保したのがコーチシナ貿易である。日本商人はコーチシナの日本人町に銅銭を売り、生糸を大量に買い付ける。さらに資金を投下してサトウキビ農家の多くが養蚕業に転じる支援も行い、同地の生糸貿易を独占した。オランダ・ポルトガルは日本商人と陶器を輸出していた中国商人によって参入できず、1635年に日本人海外渡航が禁止されて日本商人が消えるまでコーチシナからほとんど利益を挙げられていない。またトンキンでも銀貨を大量に持ち込んでの生糸・絹織物の仕入れで日本商人が優位に立っていた。

オランダ東インド会社の記録には日本商人にたびたび粗悪品を掴まされて苦杯を嘗めさせられた記録が残っている。

『鹿皮の供給を日本人だけに任せると、オランダ人に傷物だけを渡す。日本人に現金を渡しておくと、日本人は水位の高い秋冬に捕えた鹿皮を買う。そしてアユタヤ在住日本人が、日本からの帰り荷を得る春夏には、水位は低くなるが、そのとき捕えた鹿の皮も買っておく。シャムの商館長はこれに注意し、日本人の詐欺行為を防ぐように。』(永積P110-111)

鹿皮は雨期には生け捕りにできるので品質が良く、乾期は弓で射るため品質が下がる。オランダ商人に買付を依頼された日本人は傷物をオランダ商人に、良質なものは日本商人に取っておくということをして騙そうとするので注意しなければならないという記録だ。

朱印船貿易家末次平蔵政直とタイオワン事件

当時、朱印船貿易で最も成功した人物が長崎代官末次平蔵政直である。政直は秀吉時代からルソンに朱印船貿易船を送り出していたが、元和四年(1618)、当時の長崎代官村山等安の不正を幕府に訴えて失脚させると、その後を継いで代官となり、その地位を背景に次々と各地に朱印船を送り出して財を成した。彼の船には松平正綱、永井尚政、井上正就ら幕閣の主要人物が投資しており、政権との太いパイプを築いた当時を代表する政商であった。

政直で有名なのが歴史上「タイオワン事件」と呼ばれる台湾貿易を巡るオランダ東インド会社との紛争である。

台湾は、1570年頃には中国沿岸を荒していたシオコという日本人倭寇の根拠地となっていたが、やがてポルトガルがマカオに進出すると遅れてきたオランダ・イギリスが台湾を対中国の中継貿易地として活用しはじめる。1615年頃、まずイギリス人が在日華僑の商人李旦の協力で台湾貿易を開始、遅れて1622年、ポルトガル領マカオ攻略に失敗したオランダが膨湖島に要塞を築き、後に明国の依頼で台湾本島に移転、ゼーランディア城が築かれ都市タイオワンと港が整備されて本格的に台湾貿易を開始する。

1625年、オランダ東インド会社はタイオワン港に寄港する船に10%の関税を課そうとし、これに対し日本側商人たちはオランダ人が整備する以前からこの港は利用していたとして関税を拒否、幕閣にも伝わり双方の担当者が行き来する外交問題になっていた。

寛永四年、オランダ東インド会社のタイオワン長官ノイツが大使として幕府に派遣されるが、幕府はノイツがオランダ国王が派遣した正使ではないという理由で面会を拒否、一方、台湾貿易でオランダ側とかねてからトラブルになっていた末次政直の船の船長浜田弥兵衛が台湾の現地住民十六名を台湾の代表と強弁して将軍に謁見させた。しかし皆疱瘡を患っており、謁見が許されたのは一名だけで、これも二度と連れてこないようにと釘を刺されている。問題は面目を潰された格好のノイツで、ノイツは浜田の船が台湾に戻ったところその十六名を逮捕、船も出航を許さない。そこで浜田は隙を見てノイツに飛びかかり、ノイツを捕えて人質とすると、双方船で日本に航海し、到着と同時に解放するという人質交換を申し出た。長崎に両者の船が到着し、オランダ側は人質を全員解放したが、長崎で出迎えた代官末次政直はノイツを解放せず、大村の牢獄に幽閉してしまう。

事態解決のためオランダ東インド会社から特使としてウィルレム・ヤンセンという人物が派遣されるが、政直は将軍への謁見を望むヤンセンを長崎に足止めして、平戸藩主松浦隆信との連名で、ゼーランディア城の将軍への譲渡と引き替えにノイツの解放とオランダが日本貿易を独占できるよう取り計らう旨の手紙を手渡した。国書ではないが、あきらかな外交文書の偽造である。平戸商館長から昇格していた東インド総督スペックスはこれを偽りだと見抜き、あらためてヤンセンの派遣を決定する。

その後の事態の推移はよくわかっていないが、1630年六月、政直は獄死しており、当時の長崎での噂話として広まっている内容によるとどうやら獄中で狂気に駆られ『閣老、平戸侯、有馬侯、その他大勢の高官を糾弾しつつ告白をはじめた』『彼はこれらの大官こそ、彼の破滅と、彼が行った悪事の根源であり、彼はただこの手段として用いられただけ』(永積P186)と語っていたという。どうやら、幕府によって事件が露見して大スキャンダルとして騒がれる前に秘密裏に処理されたということのようだ。

その後、東インド総督スペックスの巧みな交渉によってノイツは解放されるが、何が巧みだったかというと、敢えてノイツを解雇し、ノイツにも非があるとしてあらためて幕府に人質として差し出すというアクロバティックな対応をしてみせたことだ。政直と閣僚の癒着など後ろ暗い所が少なくない幕府にしてみれば大いに面子を立てられたことになる。その対応に対して幕府もオランダに信頼を深め、やがて鎖国体制下でオランダが対日貿易を独占することに繋がっていく。

(4) キリシタン

キリシタン弾圧

1549年のキリスト教伝来以来、紆余曲折ありながらも日本国内の信者数は順調に増加し、1600年前後にイエズス会会員だけで約30万人を超えていた。すでに十六世紀には日本人キリシタンたちが東南アジア各地に現われている。古くは上記のアンジローだが、他にも彼とともにゴアで学んだアンジローの下人(洗礼名ジョアン)と日本人奴隷(洗礼名アントニオ)がいる。また1570年にはマニラでスペイン艦隊の砲撃が行われた際に現地人の軍隊に加わっていた日本人傭兵二十人の代表者が洗礼名パブロというキリスト教徒だったという。1594年、イエズス会はマカオに神学校を設立、日本人信者8人を送り学ばせている。その後、キリスト教に改宗した商人が多数登場して、十七世紀に朱印船貿易の担い手となっていった。

徳川幕府がキリスト教弾圧に転じたきっかけは慶長十七年(1612)におきた本多正純の側近であったキリシタン岡本大八の汚職事件である。ポルトガル領マカオでの有馬晴信の朱印船乗員がポルトガル船乗員と口論となり襲撃されたことに対する報復を巡って、岡本が有馬から多額の金銭を騙し取ったというもので、岡本も有馬もともに死罪となった。これに当時の大久保忠隣と本多正純の権力闘争が絡んで、キリシタン大名の改易が相次ぎ、直轄地に禁教令が出され、慶長十九年(1614)、65人(うち20人が日本人)のイエズス会士がマカオに追放となった。続いて元和六年(1620)、キリシタンでマニラを拠点に日本貿易を行っていた商人平山常陳がスペイン人宣教師二人を密かに密航させようとして露見、平山と宣教師二人が処刑される事件がおきた。上記の英蘭両国が対スペイン・ポルトガル戦への援軍を求めた際の事件である。三人の処刑に続いて「元和の大殉教」と呼ばれる55人が火刑となった虐殺事件が起き、幕府のキリシタン取り締まりが本格化していく。

元和九年(1623)七月、秀忠が将軍職を退いて大御所となり、家光があらたに将軍職に就くと、キリシタン取締は加速、十月に江戸でキリシタン150人が処刑され、11月にはイギリス・オランダ人を除く欧州人既婚者の国外追放の命令が出され、実質ポルトガル人は日本への入国が禁じられる。以後、前述のタイオワン事件や1628年のスペイン艦隊による朱印船撃沈事件、1632年長崎奉行竹中重義による海外貿易の汚職事件などを経て1635年の日本人海外渡航禁止によって朱印船貿易が終了、1636年の出島の完成とポルトガル人およびその妻子をマカオに追放、1637~38年島原の乱、1639年ポルトガル船入港禁止とイギリス・オランダ人混血児のバタヴィア追放、と鎖国体制の確立とキリシタン弾圧が進められていった。

この過程でキリシタンや欧州人との混血児たちは次々と国外追放または国外脱出を余儀なくされ、東南アジア各地に移住していく。キリシタンたちは日本人町を中心に、キリスト教の布教活動を行ったりしていたが、特に大変だったのは混血児たちであったろう。

じゃがたらお春とコルネリアの生涯

十七世紀、日本を追放された混血児で良く知られているのが二人の女性、じゃかたらお春コルネリア・ファン・ネイエンローデ(日本名不明)である。二人についてはそれぞれ研究書も出ているが、両方とも入手困難だったためここでは羽田正著「東インド会社とアジアの海」から簡単に生涯を紹介する。

「じゃがたらお春」は追放後に送ったとされる「ああ日本恋しや~」の手紙で悲劇の女性として語られることが多いがこの手紙は西川妙見(1648-1724)の創作であったようだ。じゃがたらお春こと春はポルトガル商船の船員であったイタリア人ニコラース・マリンと日本人女性との間に1626年に生まれた。1636年、母と四つ上の姉まんとともにバタヴィアに追放される。1642年、姉まんは現地在住商人の村上武左衛門と結婚するが子ども一人産んだ後若くして死亡、母も1647年までに亡くなったという。残された春は1646年、21歳でオランダ東インド会社の事務員補シモン・シモンセンと結婚、シモンも日本人を母に持つ人物であったと考えられている。夫との間に三男四女(または五女)をもうけ、シモンは税関長にまで昇進、比較的豊かな生活を送っていた。しかし、子どもたちは長女マリアを除いて皆早世、夫のシモンセンとも1672年に死に別れ、以後独りで貿易業務を行い、成功していたらしい。92年に作られた彼女の遺言状によれば、彼女はバタヴィアの高級住宅街に邸宅を構え、奴隷九人を使役していたという。1697年、バタヴィアの名士として71年の生涯を終えた。

コルネリア・ファン・ネイエンローデは1629年平戸生まれ、父はオランダ東インド会社平戸商館長だったコルネリス・ファン・ネイエンローデで、彼は二人の日本人女性を愛人としてその間にそれぞれ一人ずつ娘をもうけた。1633年、彼が亡くなると、莫大な財産がコルネリスと異母姉ヘステルの二人の娘に残されたが、これは不正蓄財であったため東インド会社がすべて没収、1637年、二人は二年後のオランダ人混血児追放に先だって東インド会社の指示でバタヴィアに送られる。孤児院に入れられた後、1644年姉ヘステルは英国人軍人と結婚、コルネリアは1652年、東インド会社の商務員補ピーテル・クノルと結婚し、翌1653年から70年までの十八年間に四男六女の子どもをもうけた。クノルも出世街道を驀進し63年バタヴィア本部の会計総責任者である首席上級商務員に昇進、バタヴィア随一の高級地に邸宅を構え、奴隷50人を使役する大富豪となった。

しかし、1672年、春の夫シモンと全く同じ年に夫のピーテル・クノルが急死すると、彼女の人生は再び波乱含みのものとなる。76年、アムステルダムからバタヴィアに赴任してきたバタヴィア裁判所の判事ヨハン・ビッターが彼女の財産目当てに近づき、再婚する。彼女もビッターの目的を気付いていて厳密な夫婦財産契約書が結ばれるが、ビッターは契約の穴を突いて彼女の財産を事あるごとに奪おうとし、さらに彼女に暴力を振るうようになり、結局夫婦関係は破綻、コルネリアとビッターとの訴訟が始まった。その途中でビッターは私貿易が発覚して背任容疑で本国に送還されるが、再びバタヴィアに復帰してきて、財産分与を巡ってコルネリアと争う。1687年、コルネリアは本国オランダまで出向いて自ら訴訟を戦い、審理途中の91年にこの世を去った。結局、財産は守られ、彼女の遺産は孫二人に相続されたという。

江戸幕府と混血児の問題は闇が深い。特徴的なのは信仰や思想、党派などによらず、ただ欧州人を両親に持つかどうか、つまり血によって選別している点である。十五世紀以降のスペインでユダヤ教徒に対して「血の浄化」という血統主義に基づいての排除が行われ、後の人種主義の萌芽として近代史上位置付けられているが(関連記事「「人種主義の歴史」ジョージ・M・フレドリクソン 著」)、それとよく似た行為として江戸幕府による混血児の追放が行われている。ただし、スペインと違うのは、これが永続的なものではなく一時的な政策であったという点であろう。十七世紀末になるとオランダ・中国商人に対しては丸山遊女が相手をするよう決められた。その結果生まれた混血児は国外追放されず、母の置屋に同居したり、母の実家に送られたりして国内でひっそりと一生を送っていた。混血児が国内の身分制度下でどのような位置づけであったのかよくわかっていないらしいが、その行動には死亡時の特別な手続き等一定の制限が設けられていたという。(羽田P219-222)

終わりに

どうしても成功者や名を遺した人が中心になってしまうが、ここで紹介した人々の背後に、名を残すことなく、懸命に生きて静かに消えていった無数の人々がいる。無理矢理海外に売られ苛酷な労働の中で死んだ奴隷たち、傭兵として戦いの中で死んだ雑兵たち、追放されて故郷への憧憬を捨てきれないまま生きざるを得なかったキリシタンたち、一獲千金を夢見ながら夢破れて貧困の中で死んだ商人たち、海賊に襲われて無造作に命を奪われた女性や子どもたち、などなど。上記で紹介した人々の最期を見ればわかるだろうが、刑死、戦死、暗殺、獄死、志半ばでの夭折・・・弱肉強食という言葉すら生ぬるい、強い者も才覚ある者も生き残れるかどうかはわからない、残酷な野望の時代を生きざるを得なかった人々である。

参考書籍
・永積 洋子 著「朱印船 (日本歴史叢書)
・藤木 久志 著「【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))
・羽田 正 著「東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)
・村井 章介 著「世界史のなかの戦国日本 (ちくま学芸文庫)
・宇田川 武久 著「鉄炮伝来――兵器が語る近世の誕生 (講談社学術文庫)
・横田 冬彦 著「天下泰平 日本の歴史16 (講談社学術文庫)
・岸野 久 著「サビエルの同伴者アンジロー―戦国時代の国際人 (歴史文化ライブラリー)
・高橋 裕史 著「イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)

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「刀狩り―武器を封印した民衆」藤木 久志 著
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江戸幕府を震撼させた国書偽造スキャンダル「柳川一件」の顛末
「ザビエルの同伴者アンジロー―戦国時代の国際人」岸野 久 著
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「イエズス会の世界戦略」高橋 裕史 著
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「海の武士団 水軍と海賊のあいだ」黒嶋 敏 著
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