豊臣軍撤退後の朝鮮半島における明国軍駐留問題

1598年十一月、朝鮮半島から日本軍は完全に撤退し、豊臣秀吉の朝鮮出兵(「文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉倭乱)」)は完全に失敗に終わった。日本軍撤退後の戦後処理で朝鮮半島において懸案となったのが明国軍駐留問題であった。以下、中野等著「文禄・慶長の役 (戦争の日本史16)」を参考にしつつ、簡単にまとめ。

※以下西暦記述。1598年=日本:慶長三年、朝鮮:宣祖三十一年、明:万暦二十六年

大きな被害を出して撤退を余儀なくされ講和締結が最優先課題となっていた豊臣政権だが、秀吉死後の集団指導体制に移行してもなお、外交上は強気な姿勢を崩していなかった。李氏朝鮮政府に対し講和条件として戦時中と同様の朝鮮の王子・廷臣の日本派遣を提示し、日本来訪があれば朝鮮人捕虜の解放、もし受け入れられなければ朝鮮再侵攻を伝えてくる。もちろん、当時の国内情勢を見れば、関ヶ原へと至る政権崩壊の過程にあり再侵攻の余裕など全く無いただの脅しでしかないが、明・朝鮮にしてみれば一旦退けたものの、未だ軍事的脅威は去っていないという認識である。

日本の軍事的脅威とともに、終戦直後の朝鮮国内の不安定も大きな不安要因であった。長い戦乱で国土は荒廃し、民衆は多大な犠牲を払っており、その不満がいつ大規模民衆蜂起へ結びつかないとも限らない。逼迫した財政は軍備増強を不可能なものとしていたため、明国軍の駐留は必要不可欠なものであったが、一方で駐留軍を養うための膨大な糧食・費用の負担も困難であった。明国にとっても、日本の侵攻に対する防衛線として朝鮮半島を位置づけており、日本の軍事的脅威が去るまでは明国軍の朝鮮半島駐留が必要であった。

日本軍撤退直後、朝鮮には陸海軍合計で三万四千~五千の明国軍が展開していたが、これを全て駐留させ続けるのは明・李氏朝鮮両政府にとって負担が大きい。まずは暫定的に明国が経費・糧食を全て負担するものの、巨額の財政赤字を抱える明政府としては、段階的に朝鮮政府への負担へと移行せざるを得ない。両政府間で数年中に全軍撤退で合意していたが、当面の駐留軍の規模をどの程度にするかで意見が分かれた。

明軍は陸兵二万、水兵五千ただし朝鮮側の負担を考慮して陸兵一万まで削減の相談に応じるというオプションを付けた。これに対して、朝鮮側は陸兵七千、水兵三千の計一万を提案する。両者の開きが埋まらない中で、強気な姿勢を崩さない日本の恫喝外交が続き、和平交渉は一向に進まない。和平交渉、駐留軍問題両方が暗礁に乗り上げる中で、明軍は一時即時完全撤退を打ち出すが、その場合、朝鮮を防衛線とする対日本戦略の抜本的見直しが必要となるため、結局これも立ち消えとなり、1599年三月、翌1600年夏までの完全撤兵を前提とした一万五千名規模の残留で合意した。しかし本格的協議は翌春に持ちこされており、合意しただけで進展には程遠い。また、この前提として、明は朝鮮政府に対して断交状態にあった対馬との交易再開に向けた交渉を促している。

相変わらず日本側は和平交渉で高圧的な姿勢を崩さなかったが、一方で窓口とされている対馬宗氏にとっては対朝鮮貿易の再開の是非は死活問題であり、妥協の可能性が探られていくことになる。このような背景で次第に対馬宗氏は国書偽造に手を染めていくのだが、それについては以前別記事「江戸幕府を震撼させた国書偽造スキャンダル「柳川一件」の顛末」で書いたので割愛する。対日本交渉において、李氏朝鮮政府は明国の冊封体制下にあることを理由にして明政府の指示を仰ぐという姿勢を取りつつ、朝鮮を排除して明と日本との間で進められつつあった和平交渉において主体性を取り戻しつつあった。

1600年に入り、膠着状態にあった駐留問題について明軍は夏までの完全撤兵の方針から一転、駐留継続を打ち出してくる。

『朝鮮駐留明軍を率いる邢玠や万世徳らは、日本側の対応が不明確な段階での撤兵は危険であるとし、侵攻の可能性が消滅し、朝鮮政府が独自の国防力を培うまで、明将と朝鮮政府が兵力の規模や負担の所在を協議して留兵を継続すべきであるとの具申を朝廷に行っている。前提となる論点は、大陸・朝鮮半島へ日本が新たに侵攻する可能性のいかん、朝鮮の軍備の脆弱性、したがってもし明の撤兵後に日本が派兵を行った場合、朝鮮半島がふたたび占領される危険性が高くなるが、それへの対処をどう考えるか、などである。』(P266)

このような中で明政府内では日本の攻撃を朝鮮半島で食い止めるという基本戦略を前提としつつも、撤兵論が強くなってくる。

『朝廷内の撤兵論者は明国内の各地で兵乱があること、兵粮の調達が困難なこと、朝鮮駐留が長期化して士気が衰えていること、一万五千程度の規模では戦略的・戦術的に意味がないこと、加えて朝鮮政府が留兵を望んでいないことなどをあげて、明軍の撤退を主張した。こうした議論の背景には、日本が再侵攻にふみ出す可能性が低いのでは、という情勢判断があったようである。』(P266-267)

このような明駐留軍と明政府との意見対立に対して朝鮮政府は三千留兵案を提示してくる。三千の兵力では実質戦力にならないが、『明軍の駐屯そのものが日本の侵攻を未然に防ぐとして、いわば抑止力としての効果を強調するものであった。』(P267)。これに対し明軍は完全撤退または、駐留するならば一万という立場を採る。朝鮮政府としては日本の脅威に対抗したいが、大規模な明軍の駐留継続によって実質的に明国の支配下に入ることもまた回避したい。しかし、朝鮮側から明国軍の完全撤退を主張することは、後々有事の際に明国への救援要請を行えなくなる危惧がある。

1600年夏に入り、残留に拘っていた明駐留軍も完全撤退の方針に転じた。一つには朝鮮政府の態度の消極性があるが、もう一つには日本の再侵攻の可能性が非常に低くなったという判断があった。当時、日本では徳川家康が豊臣政権の実権を掌握、外交上はまだ戦争再発の可能性をほのめかす外交文書を送っていたが、一方で明軍捕虜の無条件解放などを行うなど講和に向けた進展がみられていた。同時に、国内の対立を背景として明との交渉を進める家康に対抗して小西行長・対馬宗氏らによって朝鮮政府との交易再開交渉も進められるようになり、結果として日本の脅威が大きく低下したと見られていた。日本側も明の漸次撤退を視野にいれつつ和平外交に転じている。

日本の脅威の低下に対し急浮上してきたのが朝鮮半島の北、遼東地域の脅威である。台頭してきたヌルハチが建州女直五部を統合、1593年にはモンゴル系・満州系の九部族からなる連合軍を撃破して女真族の支配を確立し、未だ遼東地域は戦乱状態にあったものの、朝鮮半島の北を脅かすようになっていた。日本と女真族の脅威を背景として朝鮮政府はあらためて抑止力としての「一千留兵案」を明軍に提示するが一蹴され、結局完全撤退が決まった。

日本で関ヶ原の戦いが行われているのと時を同じくした1600年九月上旬より明軍の撤退が開始、十一月までに朝鮮半島から全軍が撤退した。一方で日本からの侵攻への備えとして明政府より朝鮮政府に対して軍備強化が指示されている。ただし、無制限ではなく日本の脅威に対する防衛に必要な範囲内として朝鮮政府には『兵馬・軍糧・城池・兵器の状況など詳細な軍事情報を遼東巡撫・軍門に報告する義務』(P276)が課された。また、この撤退によって明国の東方戦略において、日本の再侵攻があった場合朝鮮半島が再び戦地となることを前提とした、防衛ラインの後退を意味することとなった。

明国駐留軍の撤退によって軍事的な後ろ盾を失った李氏朝鮮と、国内の対立を制して豊臣政権に変わり新たに誕生した徳川政権との間で和平交渉が始められ、対立から和平へと大きく東アジアの国際関係が動いていくことになり、以後幕末まで朝鮮半島とは善隣外交が進むことになるが、一方で日本の矛先は琉球へと向かうことになる。徳川政権の命を受けた島津軍による琉球王国出兵と服属(1609年)によって明政府の態度が硬化し、また女真族(のちの後金国)の脅威、度重なる内乱などの要因によって日本との交渉は棚上げされて日明間の講和はなされないまま、1644年明国滅亡、同時に日本も鎖国体制へと入っていき、大陸との関係は対馬-朝鮮を介してか、島津-琉球を通じての貿易となっていく。

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