琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史

別のテーマで書いていた記事の話のまくらとして琉球王国の興隆と衰退、琉球と島津氏の外交について五百~千文字ぐらいの気分で略史をまとめていたらやたら長くなったので個別記事として切り出してみる。

琉球王国は長く三国鼎立状態にあった沖縄本島を一地方豪族から身を起こして一代で統一した尚巴志とその父尚思紹に始まる。尚巴志は統一戦争の過程で父尚思紹を王位につけ(1406年)、父の死後の1429年、沖縄本島を統一(第一尚氏王朝)。しかし、尚巴志王の死後政権が安定せず、1469年、重臣金丸が王位を簒奪、尚円王を名乗り、第二尚氏王朝が成立した。以後、十五世紀末から十六世紀前半にかけて全盛期を迎え、島津氏の琉球出兵(1609年)を経て、1879年に日本に併合(「琉球処分」)されるまで第二尚氏王朝が存続する。

琉球王国の隆盛は海禁政策下にあった明国の冊封体制に入ることで明と東アジア諸国とをつなぐ中継貿易によってもたらされた。高良倉吉によれば、十五世紀当時、琉球は馬の産地で、明朝初期の対モンゴル戦争時、毎年大量の馬が中国に向けて輸出されていたという。ゆえに、琉球は明にとって最重要の隣国であったから、優遇され明国から大量の船舶の無償提供や技術・人材の移動が積極的に行われ、海禁政策下で海外に行けない中国商人に替わり、東南アジア・中国・朝鮮・日本列島まで広範囲の海域にネットワークを広げた貿易国家として急成長を遂げることになった。

琉球の衰退は十六世紀初頭、ポルトガルの東南アジア進出に始まる。1511年、ポルトガルは東南アジアの中継貿易の要衝であったマラッカ王国を滅ぼし、東南アジア中継貿易を掌握した。ポルトガル進出以前、琉球はマラッカと緊密な貿易関係を築いていたが、ポルトガル領マラッカの成立後、琉球はシャム(タイ)やパダニ(マレー半島中部のパタニ王朝の都市)との関係を強化するが、マラッカとの関係を断たれた影響は少なくなかった。さらにポルトガルは北上して1557年にはマカオを獲得、1571年長崎-マカオ交易ルートを開いて着実に東アジア海域に地位を築いた。

次に日本商人の進出も大きい。十六世紀前半から室町幕府の地位は大きく低下し、1523年の「寧波の乱」(大内氏と細川氏の貿易船の船員が中国の貿易港寧波で武力衝突し、明の役人にも犠牲者が出た事件)によって日明貿易が衰退すると、1540年代から九州の諸大名・商人が個々にアジア貿易に進出、彼らの活動は東南アジアにまで広がり琉球の交易網を脅かした。

さらに、倭寇の隆盛が追い討ちをかける。明では海禁政策が取られていたが、江南、特に福建の商人たちは地元の有力層(郷紳)の支援を背景に密貿易に乗り出していた。彼ら中国商人はポルトガル商人・日本商人らともに私貿易ルートを開拓、やがて明政府による弾圧が厳しくなると、これに抵抗して私貿易網を築いていた多国籍の商人を中心に様々な集団が結合して既存の秩序から逸脱した海上勢力「倭寇」が形成、特に1550年代から最盛期を迎え、嘉靖の大倭寇と呼ばれた。十四世紀後半~十五世紀の前期倭寇に対し「後期倭寇」と呼ばれる。1556年には倭寇の軍勢が那覇港を襲撃して撃退されるなど、琉球の貿易・安全保障の脅威となった。

激しい取り締まりの結果、倭寇の活動は1560年頃までにほぼ沈静化するが、一方で、海禁政策の緩和を求める声が高まり、1565年、明は江南地方漳州の月港を開港し民間貿易を認めた。これまで海禁政策によって海外進出が制限されていた中国商人も東アジアの海域に進出することになり、東南アジアから日本まで広く東アジア各地に唐人町が形成、冊封体制を背景とした琉球による東アジア貿易の独占は完全に崩れ去ることになった。

東アジア貿易の多極化による琉球の弱体化と同時期に台頭してきたのが九州南部薩摩の豪族島津氏である。元々鎌倉幕府成立時に初代島津忠久が薩摩大隅日向三カ国守護に任じられていたことに始まるが、五代貞久の死後、二人の息子が薩摩と大隅をそれぞれ相続したことに端を発して分裂、薩摩の島津総州家と大隅の島津奥州家との対立の結果、奥州家が総州家を駆逐するが、その後、奥州家はさらに薩州家、豊州家、相州家などに分裂し、戦国時代に突入、やがて相州家の島津忠良・貴久親子が台頭して、貴久の子義久が家督を相続するころには諸勢力を糾合して薩摩半島を統一、1560年代後半には大隅、日向にも強い影響力を及ぼして三州統一をにらみつつあった。

島津氏における対琉球貿易は島津宗家である奥州家が独占していたが、奥州家の弱体化にともない、割拠する諸勢力が各々独自に琉球との貿易チャンネルを持ち、それを奥州家は統制することも出来ず、一方で、混乱する情勢を踏まえて琉球も対南九州貿易には消極的であった。諸勢力を駆逐しつつあった相州家の忠良・貴久親子は1556年から琉球に使節を送って1559年より正式に交易を開始、やがて島津氏は対琉球貿易で独占的な地位を築いていく。

次々と九州諸国を撃破して勢力を拡大する島津氏は、対琉球貿易の独占権を主張しはじめる。1570年から75年にかけて、島津氏の発行した印判を持たずに琉球に渡航した諸大名の商船受入れを禁止するよう琉球に要求して琉球の譲歩を引き出し(「あや船一件」)、1441年に将軍足利義教から琉球を賜ったとする説を唱え始めたり、諸大名の琉球侵攻計画を複数回阻止したという事実関係不明の話を喧伝したりしている。対等な貿易関係は徐々に島津氏が強大な軍事力を背景とした圧力を加え、琉球政府が対応に四苦八苦するという関係に替わりつつあった。

島津氏の高圧的な姿勢を許すことになったのは琉球の側の事情もあった。前述のような中継貿易の衰退は琉球において対日貿易への依存を強くした。また、丁度この時期、島津氏が高圧姿勢に転じるのと新国王の即位が重なって、明からの使節を招いての即位・冊封式典費用のねん出の必要もあって、安定的な島津氏との貿易は重要であった。さらに、海上輸送の安全保障に島津氏の軍事力は非常に頼りになった点や、琉球王府の首脳陣の対応が後手に回っていたこと、琉球王府に親島津派が形成されてきつつあったということもある。

島津氏は破竹の勢いで進軍し、1577年に日向伊東氏を放逐、1578年、南下してきた大友軍を撃破(耳川の戦い)、1581年肥後相良氏を服属させ、1584年には竜造寺軍を沖田畷の戦いで撃破して当主隆信を敗死させ、1585年肥後阿蘇氏を降し、あとは弱体化した大友氏を残すのみと、九州を制圧しつつあったが、畿内では豊臣秀吉が天下人となっていた。戦闘禁止を定めた惣無事令を無視し、差し向けられた豊臣軍を撃破(戸次川の戦い)した島津氏に対して1587年、秀吉は総勢二十五万の大軍を動員すると自らも出陣して島津討伐にかかる。抵抗むなしく同五月、島津氏は降伏し、島津義久に薩摩、義弘に大隅、義弘の子で義久の養子の久保に日向の一部を与えた他は、全て没収となった。

以後、対琉球外交は豊臣政権の意向を島津氏が窓口となって琉球に伝えるという形式に変化する。その窓口担当者となったのは島津義久であった。さっそく、1588年、秀吉は琉球に対して明や朝鮮、南蛮が入貢予定であること、にもかかわらず、琉球がかねてからの入貢要求にも関らず無視していること、入貢しなければ武力行使を行うことなどを琉球に伝えるよう義久に命じ、義久もこれを琉球に伝えている。ただし義久は秀吉の指示に従うのが相当気に入らなかったらしく、命じられてから三か月以上遅れての書状送付であった。

この秀吉の恫喝が送られてきたとき、丁度タイミング悪く、前国王尚永王が崩御し新国王尚寧王が即位するところだった。琉球王朝は第三代国王尚真王の子の代に二つの王家に分かれていた。廃嫡された長男尚維衡より始まる浦添王家と第四代国王尚清王から始まる首里王家で、これまで代々首里王家の王が王位についていたが、前国王尚永王に子が無く、初の浦添王家出身の王が迎えられることになっていた。傍流浦添王家出身の尚寧王は政権基盤が脆弱で、しかも、琉球王国はすでに全盛期を過ぎて、貿易量も激減、財政悪化の一途を辿っていた。

当時の外交儀礼として、先に使節を送ることは従属を意味するから、外交使節の行き来の判断は非常に慎重に検討される必要がある。しかしながら、琉球は最終的にこの秀吉の恫喝文書に対して使節を送ることを決した。使節の派遣と引き替えに、豊臣政権に対して借財の申し入れを行っており、即位式典という突発的な財政支出の問題が背景にあったことが窺える。琉球王は代々、明から使節を招いて式典を開催、冊封を受けることによって初めて王となる。特に政権基盤が弱体な尚寧王にとって権威の源泉であるところの即位式典は、豊臣政権に屈してでも実施する必要があった。

1589年、完成したての聚楽第に琉球使節が島津義久とともに訪れ、秀吉の天下統一事業を慶賀した。このとき、上機嫌であった秀吉は、琉球使節の一人、我那覇親雲上秀昌の冠を奪い、自ら被って見せたという。秀昌は頭が大きい人物であったらしく、冠は秀吉の首下までおさまり、秀吉は「大なるかな、秀昌の頭や」と叫んだと伝わっている。この外交上の非礼に対し、秀吉は後に手痛いしっぺ返しを食らうことになる。その後の無理難題の押しつけもあって琉球は反秀吉に染まり、後に朝鮮出兵計画が琉球から明国へ漏れることになるのであった。

結局、最初に東アジア諸国で豊臣政権に使節を送ってしまった格好の琉球に対し、秀吉は琉球を島津氏の「与力」(家臣)として扱い、島津氏を通して軍役・労役や兵糧の供給命令など様々な無理難題を押し付けてくるようになり、その都度、琉球政府は対応に苦慮することになる。また、琉球の入貢は、秀吉を増長させてしまった点は否めず、後の朝鮮出兵や明国征服構想を大きく後押しすることになった。

これの五~七分の一ぐらいの分量を話の導入にして書くつもりだった書きかけの記事については後日。→8/1書きました。『文禄・慶長の役を巡る明・琉球・島津氏の情報戦

参考書籍
・上里 隆史 著「琉日戦争一六〇九―島津氏の琉球侵攻
・高良 倉吉 著「アジアのなかの琉球王国 (歴史文化ライブラリー)
・羽田 正 編「東アジア海域に漕ぎだす1 海から見た歴史
・中野 等 著「文禄・慶長の役 (戦争の日本史16)

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