バイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の歴代君主まとめ

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ヴィッテルスバッハ家前史

ヴィッテルスバッハ家はドイツの名門で、主にバイエルンを738年に渡って統治した王家として知られる。現在のドイツ南部一帯バイエルン州は遡ると六世紀、フランク人の部族アギロルフィング家の統治に始まり、八世紀、タシロ3世(在位:749~88)が小ピピンに臣従し、その後シャルルマーニュに反旗を翻したことで追放され、以後カロリング朝東フランク王国、ルイトポルト家などを始め、統治者が次々と入れ替わった。

ヴィッテルスバッハ家の統治下となるのは1180年。当時バイエルン公は勇名で知られたザクセン獅子公ハインリヒ3世で、獅子公はイタリア遠征を巡って赤髭王(バルバロッサ)こと神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(在位:1152~90)と対立、怒った皇帝は獅子公からバイエルンを取り上げて、ヴィッテルスバッハ家のオットーに下賜し、彼はバイエルン公オットー1世(在位:1180~83)となった。以後、1918年までヴィッテルスバッハ家の統治が連綿と続いていくことになる。

オットー1世の子ルートヴィヒ1世(在位:1183~1231)の代に「ライン宮中伯」が与えられ(1214年)るが、ルートヴィヒ1世の子オットー2世(在位:1231~53)死後、バイエルン領は長男ルートヴィヒ2世(上バイエルン・ライン宮中伯、在位:1253~94)と次男ハインリヒ13世(下バイエルン)とに分割統治され、以後統一と再分裂、細分化を繰り返しつつバイエルン分割統治時代が続く。

ヴィッテルスバッハ家の躍進

神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世

神聖ローマ帝国では帝国史上屈指の名君として名高い皇帝フリードリヒ2世(在位:1220~50)の死後、次代のコンラート4世が在位わずか四年で死ぬと、後継者を巡って大混乱に陥った。歴史上「大空位時代」(1254~73)と呼ばれる。以前から諸侯による皇帝選挙の制度が形成されてきていたが、この大空位時代に、皇帝不在の事態への対処として皇帝選挙権は七人の諸侯にあることが確認された。1263年、ローマ教皇ウルバヌス4世によってマインツ、ケルン、トーリアの三司教とベーメン(ボヘミア)王、ザクセン大公、ライン宮中伯、ブランデンブルク辺境伯の四諸侯が皇帝選挙権を有することを教書で宣言し、彼ら選帝侯の投票による皇帝選出制度が誕生する。

大空位時代はハプスブルク家のルドルフ1世(在位1273~91)の選出によって終結するが、後にハプスブルク家が世襲することになる帝位もこのときは永続せず、様々な一族から次々と皇帝が選出される「跳躍選挙時代」(1273~1438)を迎えた。

1314年、ライン宮中伯ルートヴィヒ2世の子で下バイエルン公ルートヴィヒはドイツ国王位を巡ってハプスブルク家のフリードリヒと争い武力衝突に発展、ミュールドルフの戦い(1322年)でフリードリヒを破った彼は、1328年、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世(在位:1328~1347)となった。

ヴィッテルスバッハ家初の神聖ローマ皇帝となった彼は実兄の上バイエルン公・ライン宮中伯ルドルフ1世から領地を奪い、さらにブランデンブルク辺境伯も兼ねて権力を強化、バイエルン公都ミュンヘンを帝都としてバイエルンを大きく発展させた。しかし権力を背景として横暴が過ぎたため諸侯から見放され、1346年、教皇から廃位を宣告、ルクセンブルク家のカール(後の皇帝カール4世)が対立国王に立ち、翌年1347年に死去した。

不名誉な最期を遂げたもののバイエルン公としてはミュンヘンを始めとした都市の整備、経済の発展に貢献した。また、皇帝として特筆される成果は、1338年、「教皇の承認と確認、同意または合意」なしに選帝侯による選挙によって選出されたものが皇帝と認められる等を定めた「国王選挙法(リケット・ユーリス)」を制定したことだ。これが次代のカール4世(在位:1355~78)によって「金印勅書」(1356)へと結実する。

また、ルートヴィヒ4世と兄ルドルフ1世との対立がヴィッテルスバッハ家をバイエルン系とプファルツ系(ライン宮中伯=プファルツ選帝侯)に分裂させることになる。ルドルフ1世の死後、1329年、ルートヴィヒ4世は兄の子と和解してライン宮中伯を継がせたが実権は掌握していた。ルートヴィヒ4世の失脚と死によってやっとプファルツ系は実権を取り戻し、以後ルドルフ1世の後継がライン宮中伯(プファルツ選帝侯)職を世襲していく。1400年、ライン宮中伯ルートポルト3世が神聖ローマ皇帝に選出され皇帝ルートポルト(在位:1400~1410)るが、大きな業績を上げることなくわずか10年で死し、帝位の世襲もならなかった。

バイエルン公アルブレヒト4世

ルートヴィヒ4世の死後、バイエルン系ヴィッテルスバッハ家はあらためて上・下バイエルンに分裂、さらに内紛と領地の細分化によって、下バイエルン=シュトラウビング公、下バイエルン=ランツフート公、上バイエルン公(1375年よりさらに上バイエルン=インゴルシュタット公、上バイエルン=ミュンヘン公に分裂)の各領土に分裂、大きく弱体化していたが、これを統一させたのが狡猾公の名で知られる上バイエルン=ミュンヘン公アルブレヒト4世(在位:1463~1508)であった。

1467年、アルブレヒト4世は兄ジギスムントを追放して公位を簒奪すると、続いて金に困っているチロル領主に多額の金銭を融資してときの神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(1452~93)の皇女クニグンデの拉致計画に参画させ、これを実行した。かねてからクニグンデを籠絡しており、皇帝の反対を無視して拉致してきた彼女と結婚、激怒する皇帝との対立の仲介を皇帝の子で自身の義兄にあたるローマ王マクシミリアン1世に依頼して、以後彼に仕えた。マクシミリアン1世は父の死後神聖ローマ皇帝となり(在位1493~1519)、ハプスブルク家繁栄の基礎を築いて大帝と呼ばれた。

強引な手法で見事にハプスブルク家との閨閥を築きつつ、1503年には下バイエルン=ランツフート公ゲオルグの死に乗じて同公位の継承に異を唱えて軍事介入(「ランツフート戦争」)、下バイエルン=ランツフート公領と、それに先立って1479年に後継が絶えてゲオルグが預かっていた上バイエルン=インゴルシュタット公領も併合し、アルブレヒト4世以前の1425年に後継が絶えて三公領に分割併合されていた下バイエルン=シュトラウビング公領もあわせて、1505年、バイエルンの再統一に成功する。異名の狡猾公はこれらの巧みな権謀術数ゆえだ。

アルブレヒト4世はさらにハプスブルク家を滅ぼしてオーストリアを併合しバイエルン帝国を樹立する構想を持っていたともいうが、さすがにその妄想は叶わなかった。また、彼は政略だけでなく内政にも手腕を発揮し、ヴィッテルスバッハ家内法の制定、警察機構の構築、治水・水道敷設など様々な施策を行っている。

ドイツ三十年戦争

プファルツ選帝侯フリードリヒ5世

アルブレヒト4世の野望を実行に移したのはバイエルン系ヴィッテルスバッハ家の子孫では無く、もう一つのプファルツ系ヴィッテルスバッハ家のフリードリヒ5世(在位1610~1632)であった。

1517年に始まった宗教改革の波は帝国全土を覆い、カトリックとプロテスタント、支配者と民衆といった対立構図とは別に、中央集権化を図る皇帝=ハプスブルクとそれに対抗しようとする諸侯、台頭する帝国等族の対立関係も巻き込んで複雑な利害関係が絡む宗教戦争へと突入した。スペイン王にして神聖ローマ皇帝という強大な、ゆえにあまりに忙しすぎた皇帝カール5世(在位:1519~1556)による調停も失敗し、プロテスタント諸侯と皇帝による内戦(「シュマルカルデン戦争(1546~47)」)を経て、「アウグスブルクの宗教和議」(1555)が結ばれ領邦の自立化とカトリックとルター派いずれかの信仰を選ぶことが認められ、各領邦は次第に集権化を強めていく。カール5世の死後、神聖ローマ皇帝は無能な人物が続くこととなり、ハプスブルク家と帝国は弱体化、宗教和議による平和秩序は機能不全を起こし始めていた。

このような背景で、プロテスタント諸侯の盟主的な地位に立ったのがプファルツ選帝侯であった。プファルツ選帝侯フリードリヒ2世(在位:1544~56)はデンマークのクリスチャン2世の娘を妻としてデンマークの「伯爵戦争(1533~36)」に介入、カトリックを支持したカール5世と対立してルター派の後ろ盾となった。また選帝侯領の主都ハイデルブルクに集まったプロテスタント諸派によって聖餐論論争が盛んになった。続くオットー・ハインリヒ(在位:1556~59)もプファルツで宗教改革を進め、オットー・ハインリヒの後を継いだフリードリヒ3世(在位:1559~76)は熱心なカルヴァン派で、聖餐論論争を受けて聖職者会議を招集、1563年「ハイデルブルク信仰問答」を出版させた。フリードリヒ4世(在位1583~1610)はカトリック諸侯とプロテスタント諸侯の対立激化を背景として1608年、プロテスタント諸侯を糾合して「プロテスタント同盟(ウニオーン)」を設立、しかし、ルター派とカルヴァン派の対立もあって参加諸侯は少なく、脆弱な同盟であった。

プロテスタント同盟を受け継いだフリードリヒ5世は、1618年、ハプスブルク家の御膝元ベーメン王国の都市プラハでおきた「プラハ窓外放擲事件」を契機として始まったプロテスタント等族の反乱を支援し、1619年、ベーメン王フェルディナント2世の廃位を決定したベーメン議会の求めに応じてベーメン王に即位する。さらに、前皇帝マティアスの死によって行われていた皇帝選挙に名乗りを上げ、フェルディナント2世と争うがプロテスタント諸侯の支持を得られず敗北。これを受けてハプスブルク打倒のため、兵を集めて反旗を翻した。全欧州を巻き込んだ「ドイツ三十年戦争(1618~48)」の始まりである。

しかし、ザクセン、ブランデンブルクの両プロテスタント選帝侯は日和見を決め込み、自らが盟主のはずのプロテスタント同盟は早々に皇帝と和議を結んでしまい、妻の父である英国王ジェームズ1世にも援軍の要請を丁重に断られ、わずかな諸侯と寄せ集めの傭兵たち、ボヘミアの等族の混成軍は、名将ティリー伯に率いられた皇帝・スペイン連合軍の前になすすべなく敗北(「白山の戦い」)、フリードリヒ5世はベーメン王位を失い、プファルツ選帝侯領からも追放され、旧領はバイエルン公マクシミリアン一世に与えられた。

追放されたフリードリヒ5世はこの処置を帝国法違反として内外にアピールし、改めて兵を集めて捲土重来を期すが、ここで彼に呼応して再び集結しようとするフリードリヒ5世派諸侯はティリー伯の皇帝軍によって各個撃破され(「ヘーヒストの戦い」「ヴィンブフェンの戦い」)、フリードリヒ5世の野望は完全に潰えた。1623年、選帝侯位はバイエルン公マクシミリアン1世に与えられ、一方フリードリヒ5世は冬王と呼ばれ、1632年、亡命先のハーグでペストに罹り失意のうちにこの世を去った。

初代バイエルン選帝侯マクシミリアン1世

フリードリヒ5世を撃破した皇帝軍を率いていたティリー伯の主君がバイエルン公マクシミリアン1世(在位:1597~1651)である。家督を継いですぐにバイエルンの財政再建と軍備拡張に乗り出して成果を挙げ、カトリック派の盟主として、1608年、「カトリック連盟(リーガ)」を組織、これには多数の諸侯が参加し、高い人望を見せつけた。三十年戦争が始まるといち早く新皇帝フェルディナント2世(在位:1619~37)に臣従して、自身の家臣で百戦錬磨の名将として知られた老将ティリー伯ヨハン・セルクラエスを皇帝軍総司令官に就け、カトリック連盟の潤沢な資金力を背景に皇帝軍で重きをなした。

1623年、皇帝フェルディナント2世によって選帝侯位が与えられると、金印勅書からの逸脱と諸侯の間で受け止められ、三十年戦争を激化させることになった。

政治家としても軍事司令官としても卓越した手腕を持ち、フェルディナント2世側につきながらも皇帝権の拡大を掣肘してフェルディナント2世の様々な中央集権化政策には是々非々で臨み、また秘密裏にフランスと手を組んでスペインを牽制しつつ、介入してきたグスタフ2世アドルフのスウェーデン軍やプロテスタント諸侯と対抗、ティリー伯やヴァレンシュタイン亡き後、ハプスブルク家の劣勢が明らかになる中で文字通り皇帝軍の主力として最後まで帝国の崩壊を防ぎ続けた。

1632年のレヒ河の戦いではバイエルン公領近くでグスタフ2世アドルフ軍がティリー伯率いる皇帝軍を撃破するが、そこに援軍として登場し、負傷したティリー伯に変わって撤退戦の指揮を採り、猛追してくるスウェーデン軍を振り切って退却を成功させ、1645年の第二次ネルトリンゲンの戦いでは名将テュレンヌ率いるフランス軍を撃破するも、コンデ公率いるフランス本軍の猛攻で撤退に追い込まれた。その他さまざまな戦いでの戦功は数知れない。三十年戦争最後の戦いとなった「ツスマルスハウゼンの戦い」は休戦を不服としたバイエルン公旗下の将軍たちが起こしたもので、フランス・スウェーデン連合軍に最終決戦を挑み敢え無く敗れるが、バイエルン軍の精強さを見せつける結果となった。

ヴェストファーレン会議でも敗軍の将ながら厚く遇され、ヴェストファーレン条約ではバイエルン選帝侯位の保障、上プファルツの獲得のほか、下プファルツはフリードリヒ5世の遺児カール・ルートヴィヒに与えられてプファルツ選帝侯とされるが、将来、バイエルン・プファルツ統合時にはプファルツ選帝侯位は消滅、バイエルンに一本化されることが決定された。

三十年戦争を最初から最後まで主力として戦い抜いた数少ない人物であり、後のバイエルン繁栄の礎を築いた、およそ君主に必要とされる能力を非常に高い水準でバランスよく有したヴィッテルスバッハ家史上随一の君主と言える。

バイエルン選帝侯時代

マクシミリアン1世の子フェルディナント・マリア(在位:1651~79)を経て、第三代バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル(1679~1726)とその子カール1世アルブレヒト(1726~45)の代にバイエルン選帝侯国は神聖ローマ帝国で一、二を争う名門として栄えた。

バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル

マクシミリアン2世エマヌエルは、1683年、オスマン軍が帝都ウィーンを十五万の大軍で包囲した「第二次ウィーン包囲」に際し、諸侯連合軍の一員として参加して目覚ましい活躍を見せてウィーンの救援に貢献、オスマン軍撤退後の大トルコ戦争(1683~99)でもハンガリーのブダを陥落させ、オスマン軍を度々撃破するなど戦功を上げ、プファルツ選帝侯カール2世の死後の後継者を巡って膨張政策を取るルイ14世のフランスが介入したことに諸国が同盟を組んで対抗した「大同盟戦争(1688~97)」にも参戦、ライン川で仏軍を迎撃し、同戦争の第二次ナミュール包囲戦(1694)ではフランドル地方を占領するなど各地を転戦した。

妻は神聖ローマ皇帝レオポルト1世の娘マリア・アントニアで、彼女の母がスペイン国王フェリペ4世の娘マルガリータ・テレサとなるから、マリア・アントニアとの間に生まれた男子ヨーゼフ・フェルディナントはアストゥリアス公(スペイン王太子)とされ、その縁で自身もスペイン領ネーデルラント総督に任じられる。スペイン・ハプスブルク家の断絶によって始まった「スペイン継承戦争(1701-14)」ではルイ14世と同盟を組んで参戦したが、これが裏目に出て1704年、ブレンハイムの戦いでオーストリアの名将プリンツ・オイゲン率いる英墺連合軍に大敗、フランスへの亡命を余儀なくされバイエルン全土もオーストリアに占領された。1714年の終戦によってアンジュー公フィリップがフランスの王位相続権を放棄する代わりにスペイン王位相続を認められてフェリペ5世となり、あわせてマクシミリアン2世エマヌエルも帰国・選帝侯領の保持が認められた。

バイエルン選帝侯カール1世アルブレヒト(神聖ローマ皇帝カール7世)

戦場を駆け巡った父の後を継いだカール1世アルブレヒトは神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世(在位:1705~11)の次女アマリア・マリアを妻としていたが、父の雪辱を晴らすためかハプスブルクへの対抗心をむき出しにする。彼が問題としたのが「国事勅書」である。

スペイン王家の断絶を他山の石として、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世と弟のカール6世(在位1711~40)は男系長子相続を基本として一方の男系が絶えたらもう一方の男系が継ぎ、さらに両方ともに男系が絶えた場合に女系相続を行う旨を取り決めた。ヨーゼフ1世が男子に恵まれないまま死去し、カール6世が即位、1713年、上記の取り決めに加えてハプスブルク家の領地財産の不分割とヨーゼフの家系より自身の家系を優先するとした「国事勅書」を制定した。カール6世も男子に恵まれないまま時が過ぎ、カール6世の長女マリア・テレジアの相続が濃厚となる中で、それに異を唱えたのが、バイエルン選帝侯カール1世アルブレヒトである。

選帝侯に就任した1726年頃から彼は盛んに反「国事勅書」運動を行い、プファルツ、ケルン、トーリアのヴィッテルスバッハ系選帝侯を味方につけ、さらにヨーゼフ1世の長女を妻としていたザクセン公アウグスト2世も引き入れて選帝侯の過半数を確保する。しかし、この動きを察知したカール6世は密かにスペイン、プロイセン(ブランデンブルク選帝侯)、ロシアから国事勅書の同意を取り付け、イギリスとオランダに対してはわざわざ両東インド会社のライバルとなっていたオーストリアのオスタンド商事会社を解散させるなど譲歩を行う。さらに、1733年、ポーランド王でもあるザクセン公アウグスト2世の死に際して長子アウグスト3世の即位を支持、これに異を唱えたフランスとポーランド王位継承戦争を戦って和議を結び、国事勅書への同意を取り付けた。

1740年、カール6世が亡くなりマリア・テレジアがハプスブルク家を、マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが皇帝とベーメン王に即位しようとする。当然のことながら、カール1世アルブレヒトはこれに異を唱え、自身が皇帝に就くことを主張、選帝侯会議は両勢力の熾烈な綱引きが行われることになる。ここでキャスティングボートを握ったのがプロイセン王(ブランデンブルク選帝侯)のフリードリヒ2世(在位:1740~86)である。即位したての若き大王は、マリア・テレジアの足元を見て最高に高値を吹っかけた。鉱業資源に恵まれ農業も盛んなオーストリア随一の富裕な地帯であるシュレージエン地方を割譲してくれれば帝位を認めようと。当然飲めないので拒否すると、1740年12月、突如プロイセン軍が四万の兵でもってシュレージエン地方に侵攻、電撃作戦で瞬く間に全土を制圧した。「オーストリア継承戦争(1740~48)」の勃発である。

プロイセンの侵攻と呼応してフランスと同盟を結んだバイエルン選帝侯カール1世アルブレヒトもベーメンに侵攻して占領を果たすとベーメン王に即位、選帝侯の過半数を獲得して翌1742年2月にフランクフルトで神聖ローマ皇帝に即位、カール7世(1742~45)となった。1438年以来300年に渡って世襲されていたハプスブルク朝神聖ローマ帝国がここで一度断絶する。

1741年、プロイセン軍に対し反撃にでたオーストリア軍だったが、フリードリヒ2世の前に散々に打ちのめされると、ハプスブルク弱しとみた諸侯がこぞって参戦してくる。四面楚歌の中でオーストリアは粘り強く戦線を維持して耐え忍ぶと、イタリアの支持を取り付けて1742年に入って反撃に転じ、まずケルン大司教(選帝侯)領に侵攻、続けてカール7世不在のバイエルン選帝侯領に侵攻して、同2月、首都ミュンヘンを占領する。これによってフランクフルトにいたカール7世は本領に戻れなくなってしまう。さらに、孤立主義を採っていた英国のウォルポール首相が死去したことを機に英国と同盟を締結、またザクセンとも和平を結び、反撃体制を着実に整えていた。

このような渦中で1745年、カール7世が急死し、せっかくハプスブルク家から奪った帝位もわずか三年で手放すことになった。この後を継いだバイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフはオーストリアと和平を結んでフランツの皇帝就任を支持、フランツ・シュテファンがあらためて神聖ローマ皇帝に即位してフランツ1世(1745~65)となった。

オーストリア継承戦争とそれに続く七年戦争(1756~63)は後に長年の対立関係にあったはずのフランスがオーストリアと同盟を結び(外交革命)、オーストリアが外交的優勢を確保する一方で、実際の戦闘ではフリードリヒ2世の天才的軍略でプロイセンが(一時ベルリンを占領されたこともあったが)ほぼ優勢を維持して一進一退となり、1763年、フベルトゥスブルク条約でシュレージエンのプロイセン領有等が認められて終結。七年戦争を機に英国、フランス、ロシア、オーストリア、プロイセンの五大国体制が確立した。

バイエルンはこのとき、ハプスブルクと伍するほどの権威を持ち、皇帝にすら即位して最盛期を迎えながら、それを支えるに足る国力が無く度重なる戦争で疲弊していくことになった。この時期、権威の獲得では無く軍事・行財政機構の整備、産業の育成など内政に目を向けていれば、もしかすると違った歴史があったかもしれない。プロイセンのフリードリヒ2世の父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は軍人王と呼ばれたが、その名に反して「大北方戦争」に参戦した以外は一切の軍事行動を起こさず、ひたすら内政に注力していた。その蓄積があったからこそのフリードリヒ2世の対外的な積極策だった。

バイエルン選帝侯カール4世フィリップ・テオドール

バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフには後継者が無く、1777年に死去すると、ヴェストファーレン条約の取り決めに従ってプファルツ選帝侯がカール4世フィリップ・テオドール(在位:1777~99)としてバイエルン選帝侯となった。このときプファルツ選帝侯位は廃され、バイエルンとプファルツが統合、バイエルン再生のチャンスが巡ってくる。マクシミリアン1世の遺産というべきか。

ところが後を継いだ選帝侯カール4世フィリップ・テオドールは元々バイエルンに対する統治意欲が無く、バイエルン領獲得を狙う神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(在位:1765~90)の誘いに応えてバイエルンの割譲を約束してしまう。早速ヨーゼフ2世がバイエルン占領に動くと、これに異を唱えたのがプロイセン王フリードリヒ2世で、オーストリアの拡大を憂慮して諸外国を巻き込んでヨーゼフ2世を批判する。そこで、皇帝はネーデルラントとの交換を提案するも受け入れられず、諸外国の支持を受けたプロイセン軍がベーメンに侵攻、戦闘らしい戦闘は無かったが、オーストリアが折れてバイエルン併合を諦めるという事件「バイエルン継承戦争」があった。

やる気の無かった君主カール4世フィリップ・テオドールであったが、内政においては目覚ましい成果を残しており、大規模な干拓事業による農業力の強化、租税負担の低減による産業振興、旧バイエルン-旧プファルツ間の関税撤廃による貿易促進、などなど様々な経済改革を断行して、十九世紀初頭のバイエルン復活の基盤を整えた。バイエルン継承戦争を巡る無責任さで批判を受けることが多いが、近年再評価されている。

バイエルン王国時代

初代バイエルン国王マクシミリアン1世ヨーゼフ

1799年、カール4世フィリップ・テオドールもまた後継者が無いまま死んだため、プファルツ系ヴィッテルスバッハ家の傍流プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト家からマクシミリアン4世ヨーゼフが新たにバイエルン選帝侯となった。

世は再び全欧州を巻き込んだ動乱の時代へと突入していた。1789年より始まるフランス革命とその後の混乱の中から頭角を現したナポレオン・ボナパルトは、1799年、ブリュメールのクーデターを起こしてフランス第一執政となり軍事独裁体制を確立、1804年には自ら戴冠してフランス皇帝ナポレオン1世(在位:1804~14、1815)に即位、対仏大同盟を破って列強諸国を次々と平らげていく。

バイエルンが幸運だったのは、新選帝侯マクシミリアン4世ヨーゼフが非常に鋭い外交感覚を持っていたことだった。諸国が対仏同盟を組みながら不協和音を奏でているのを横目に、いち早くフランス側に付いてナポレオンの信頼を獲得すると、1803年のナポレオンによる神聖ローマ帝国領邦再編でプロイセンに次ぐ領土を獲得して中規模国家に拡大、1805年、フランスがオーストリアを撃破した「アウステルリッツの戦い」の講和条約「プレスブルクの和約」で王国に昇格し、マクシミリアン4世ヨーゼフはバイエルン国王マクシミリアン1世ヨーゼフ(在位1806~1825、選帝侯時代:1799~1806)として即位する。1806年、ナポレオンを保護者とする「ライン同盟」の筆頭として参加してフランス最重要の友邦として重きをなし、自身の長女をナポレオンの養子、ロイヒテンベルク公ウジェーヌ・ド・ボアルネと結婚させるなど蜜月関係を築いた。

しかし、ロシア遠征の失敗やライプツィヒの戦いの敗北などナポレオンの劣勢が明らかになると180度手のひらを反してオーストリアに接近、ウィーン会議後はオーストリア主導の「ドイツ連邦」に参加し、その地位を保つために娘たちを次々と各国王族に嫁がせて巧みな婚姻政策を見せた。三女カロリーネはオーストリア皇帝フランツ1世妃、二度目の王妃との娘エリザベートはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世妃、その双子の姉妹アマーリエはザクセン王ヨハン妃、他オーストリア大公フランツ・カール妃、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世妃などである。

内政はツヴァイブリュッケン時代からの忠実な官僚モンジュラ伯を大臣に任じて様々な近代化政策を採った。モンジュラ伯主導で、内閣制度の設置、官僚採用試験制度の採用、地方行政機構の確立と中央集権化、国内関税の撤廃、義務教育制度の導入など教育改革、財政改革のほか、1808年制定のバイエルン憲法はドイツ人によるものとしては初の憲法で、身分制度の廃止、法の前の平等、財産権の保護、信仰と出版の自由、国民代表議会の設置などが定められた。この一連のバイエルンによる近代国家の基盤整備は、同時期に進んでいたプロイセンを始め西南ドイツ地域全体の国家改革の動きに対しても大きな影響を与えた。

卓越した外交センスと、有能な家臣に恵まれて斜陽の領邦国家を近代国家に脱皮させたバイエルン中興の祖と言える。

跡を継いだルートヴィヒ1世(在位:1825~48)もミュンヘン大学の設立、鉄道の敷設、様々な工業化政策の実施など手堅い政策を採り、ギリシア独立戦争終結後の講和条約「ロンドン議定書」で次男オットーをギリシア国王に送るなど外交でも成果を出し、また美術を好んでミュンヘンを欧州有数の芸術都市に発展させたが、多数の愛人を抱えた艶福家でもあり、1848年、欧州全土が自由主義革命に揺れて次々と各国の君主が退場する中、彼自身も愛人スキャンダルで国民の批判を強く受けて退位を余儀なくされた。

三代目のマクシミリアン2世(1848~64)は元々学者志望で、科学者を多く招聘して学問を奨励、また都市を整備してミュンヘン市内の建築様式を統一(マクシミリアン様式)するなど特に文化面で成果を残した。また、ドイツ連邦内での関税問題を巡るオーストリア、プロイセン間の対立を利用して、両大国をけん制しつつザクセンとともに諸邦の主導的役割を担って第三勢力を形成するなど、外交でも存在感を発揮した。

バイエルン国王ルートヴィヒ2世

狂王の名で知られるように、ルートヴィヒ2世(在位:1864~86)は在位中ほとんど夢想の世界に耽溺していた。平和な時代であればそれでも良かったかも知れないが、プロイセンでは宰相ビスマルクが強力にドイツ帝国建設を推し進め、フランスではナポレオン3世が再び欧州に覇を唱えんとしている時期で、欧州情勢は風雲急を告げており、そのミスマッチは誰も幸せにしない結末を招くことになった。

1866年、シュレースヴィヒ・ホルシュタインの帰属を巡ってオーストリアとプロイセンの対立が激化、プロイセンと北ドイツ諸邦の独立を機にオーストリア・南ドイツ諸邦との間で戦端が開かれた。「普墺戦争」である。このとき、バイエルン王ルートヴィヒ2世は戦争そのものを嫌悪していたため参加を忌避しようしたがそれも叶わず嫌々ながらオーストリア側として参戦した。しかし、モルトケ指揮下のプロイセン軍の前に墺・南ドイツ諸邦軍は次々と撃破されて七週間で終結、ドイツ連邦は解体し、バイエルンは事実上プロイセン・北ドイツ連邦と共同歩調を取らされることになった。

1870年、フランス皇帝ナポレオン3世は急速に伸張するプロイセンを警戒して、スペイン王位継承問題など様々な外交面でプロイセンを牽制してくる。ビスマルクはフランス大使とプロイセン王との会談後の電報を改竄して無礼な要求をしてくるフランスという構図を意図的に演出、国内の反フランス感情を煽り(エムス電報事件)、ナポレオン3世を挑発。これに乗せられたナポレオン3世がプロイセンに宣戦すると、北ドイツ・南ドイツ諸邦を巻き込んで軍を起こし、セダンでナポレオン3世を捕虜とした。この「普仏戦争」によってフランス第二帝政は崩壊、勝利を受けて一気に南ドイツ諸邦との統一交渉を進め、プロイセンを除くと第一の大国であるバイエルンとザクセンの自立性を尊重する体でドイツ帝国の成立を認めさせた。

ルートヴィヒ2世にはこの間の国際政治の推移にはなすすべもなかったし、そもそも大した興味も覚えていなかった。ビスマルクの野望もハプスブルクの没落もナポレオンの敗北もどこ吹く風で、作曲家ワーグナーに心酔し、オペラの世界に溺れた。1867年頃から彼が熱中したのが築城で、リンダーホフ城、ヘレン・キームゼー城、ノイシュバンシュタイン城など贅の限りを尽くした城を次々と築き、その各地の城に閉じこもった。彼の築城趣味によってこれまで代々の君主の努力によって健全さを保っていた国家財政は普墺戦争敗戦の賠償金も重なって一気に破綻、1873年のオーストリアから始まる恐慌の影響を強く受けてバイエルン経済も恐慌状態となり、バイエルン王国は危機的状況へと追い込まれた。

1886年6月12日、憂慮した家臣団はルートヴィヒ2世を拘束、医師に精神病とする診断を行わせ、廃位させた。廃位の翌日にあたる6月13日、ルートヴィヒ2世は謎の水死体で発見され、その生涯を終えた。

後を継いだ王弟オットー1世(在位:1886~1913)も普墺戦争従軍経験の影響で精神に異常をきたしていたと言われ、マクシミリアン2世の弟ルイトポルトが摂政として国政を司ったがルートヴィヒ2世時代のつけは重く、オットー1世の死後、ルイトポルトの子がルートヴィヒ3世(在位:1913~18)となったが、最早一領邦でしかないバイエルンにはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の軍事的冒険をどうすることも出来ず、バイエルンも戦時体制に組み込まれ、第一次世界大戦の終結とともにドイツ全土で民衆が蜂起したドイツ革命の嵐の中、ルートヴィヒ3世は退位宣言書に署名してハンガリーへ亡命、バイエルン王国は滅亡した。

他、書き切れなかったが十七世紀にプファルツ系ヴィッテルスバッハ家の傍流がスウェーデン女王クリスティナの退位に伴って王位を継ぎプファルツ朝スウェーデン(1654~1721)が誕生している。カール10世カール11世カール12世とスウェーデン・バルト帝国の全盛期を現出して、歴史に名を遺した。

参考書籍・論文・リンク
・関田 淳子 著「ドイツ王室一〇〇〇年史 (ビジュアル選書)
・ピーター・H. ウィルスン 著「神聖ローマ帝国 1495‐1806 (ヨーロッパ史入門)
・ジェフリー・エリス 著「ナポレオン帝国 (ヨーロッパ史入門)
・木村 靖二 編「ドイツ史 (新版 世界各国史)
・君塚 直隆 著「近代ヨーロッパ国際政治史 (有斐閣コンパクト)
・菊池 良生 著「戦うハプスブルク家 (講談社現代新書)
・飯塚 信雄 著「フリードリヒ大王 啓蒙君主のペンと剣 (中公新書)
・セバスチァン・ハフナー 著「図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
・福本淳論文「18世紀後期のバイエルン選帝侯国における関税改革・選帝侯カール・テオドールの再評価を中心に」(1998)
・三宅立論文「日記の中の第一次世界大戦-バイエルンのカトリック農村から-
ヴィッテルスバッハ家 – Wikipedia
ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝) – Wikipedia
アルブレヒト4世 (バイエルン公) – Wikipedia
フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯) – Wikipedia
マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯) – Wikipedia
マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯) – Wikipedia
カール7世 (神聖ローマ皇帝) – Wikipedia
カール・テオドール (バイエルン選帝侯) – Wikipedia
マクシミリアン1世 (バイエルン王) – Wikipedia
ルートヴィヒ2世 (バイエルン王) – Wikipedia

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