「民衆の大英帝国―近世イギリス社会とアメリカ移民 (岩波現代文庫)」川北 稔 著

十七・十八世紀に英国から新大陸アメリカへ渡ったのはどのような人々だったのか?本書は移民の出自調査から当時の英国階級社会の実像を分析し、社会階層を反映した国内外の人の大規模な移動に大英帝国形成の過程を見ている。岩波現代文庫からの発売は2008年だが、原本は1990年刊であとがきによると章のタイトル変更など最小限の改訂だけのようなので、四半世紀前の本ではあるが、非常に興味深い内容になっている。

当時、イギリスに限らず欧州からアメリカに渡った人々は『自由移民と不自由移民に大別され、後者はさらに、(1)年季奉公人、(2)リデシプショナー、(3)政治犯・浮浪者などを含む囚人で流刑となった者』に大別され、そのおよそ三分の二が『渡航費や生活費をプロモーターに支弁してもらう代わりに、プランテーションでふつう四年間の強制的労働に従事することを約束して、アメリカに渡った移民たち』(P3)すなわち「年季(契約)奉公人」であった。彼ら「年季奉公人」は階級社会英国でどのような階層の出身だったか、研究史では諸説議論があったが、当時の貴族・ジェントリと貧民とに二極分化していた英国社会を反映して『そのほとんどが、(1)農民(ヨーマンとハズバンドマン)と各種職人・商工業者、(2)日雇い労働者(レイバラー)、(3)まだ独立していないサーヴァント、によって構成され』(P41)、特に下層に顕著に多かった。

このあたり、史料上の限界があり必ずしも全体像を把握出来ないようで、英国からの移民のうち年季奉公人の総数は三〇ないし四〇万人と推定されているものの、そのうち史料が残るのは二、三万人分にとどまる。このような前提で、年季奉公移民の大多数を占めていたと考えられているのが「ライフサイクル・サーヴァント」と呼ばれる上流階級を除く階層の子弟が十代後半から二十歳代にかけて徒弟的に住み込みで従属的な労働に従事する若年層中心の労働形態で、当時の英国社会では通過儀礼的に誰もがサーヴァントの立場を経験していた。基本的に親のコネクションや経済力で勤め先が決まるので、サーヴァントといいつつも例えばマナーも学べる富裕家庭での家事使用人とか商人の見習いといった良好な職種は独占され、必然的に下層階級ほど真っ当な職に就けなくなる。

興味深かったのは十七・十八世紀の英国各地で見られた「スタッティー(statty)」、「モップ・フェア(The mop)」などと呼ばれた雇用市の存在である。九月に開かれる祝祭ミクルマス(聖ミカエル祭)にライフサイクル・サーヴァント期間中の働き口を求める若者たちが希望の職種の目印を持って多数集まり、雇い主たちがそれを見て次々と契約していくというもので、文字通りの労働市場(いちば)である。短期の年季奉公契約が結ばれ多くは植民地で農業サーヴァントとして働くことになる。ただ、当時からこの雇用市は若者という弱い立場の求職者を有無を言わせず強制的な労働に従事させることになる点で人身売買ではないかという批判があり、また、雇用市は若者が集まっているだけに自ずと飲酒や乱交などへと結びつきやすく警察当局も厳しい警戒を敷いていた。この慣行はサーヴァント慣行の消滅と植民地の労働力需要が白人労働力から黒人奴隷へと移る中で十九世紀に廃れていくことになる。

このような雇用市を通じてであったり、国内で職が見つからなかったり、必ずしも望んだ職ではなかったりしたとき、サーヴァント期間中に新大陸へ年季契約で赴き、プランテーションでの労働などに従事して、契約が切れて帰国する。およそ十五歳前後から二十代前半までのサーヴァント期間を経て自立・結婚していくことになるが、国内でその機会を得られなければ自ずと海外へ目を向けることになり、新大陸へと移民していく。このときも年季奉公という契約を取らざるを得ず、新天地で自立のチャンスを握ろうとした。

年季奉公とともに、軍人・水夫としてであったり、囚人として流刑にあったりしてアメリカに赴く例も多かった。特に十七世紀から十九世紀初頭の英国というのは英蘭戦争からナポレオン戦争まで百数十年に渡る長き戦争の時代にあり、植民地はもう一つの主戦場であったから、かなり厳しい強制徴募制によって無理矢理兵士にされたものたちも少なくなく、軍人にならざるを得なかった層と年季奉公人となった層とはかなり類似した傾向があるという。また、十八世紀になると国内で囲い込み(エンクロージャ)によって土地や家畜を失った農民たちが多くアメリカを目指すことにもなった。

年季奉公人に捨て子・孤児が多かったが、同様に海軍兵卒にも捨て子・孤児出身者が多くいたことが分かっている。英国では捨て子に対する視線が厳しく、『捨て子はすなわち私生児であり、私生児とは性的逸脱行為の結果である』(P206)という偏見から、『親の逸脱行為の責任は、子供にまでその責任が及ぶというのが、プロテスタント国家イギリスの常識であった』(P206)から、彼らは出生時に殺されたり、乞食とさせられたり、幼くして売られたりと差別的な扱いを受けた。

このような捨て子たちの救済措置が始まったのは1739年、トマス・コーラムらによって「ロンドン捨て子収容所」が設立されたのを契機とする。1756年、七年戦争を契機に孤児を兵士に育成することを目的として同収容所に対する補助金が増額されて孤児の収容が進められ、1760年までに一万六三二六人が収容(うち九九六二人が死亡)されたほか、各地で孤児の保護が進み、彼らは長じて海軍や植民地での労働力として送り込まれていく。英国では富国強兵と福祉のセットとして弱者救済が進められた。背景として当時の人口こそ国力という観念があり、捨て子救済政策に博愛主義と帝国主義的膨張の共存が見て取れて、非常に興味深い分析が展開されている。

近世・近代英国には『社会問題を、できれば植民地に押しだすことで解決しようとする傾向』(P277)が強く、同時に『あわよくば「帝国の拡大、維持」に利用しようとさえする』(P214)独特の思考法があった。これが帝国主義的拡大と英国の発展を支え、同時にアメリカ独立に始まり第二次大戦後まで続く痛烈なしっぺ返しの要因ともなっていったということだろう。ボトムからみる大英帝国の姿が非常に面白い一冊だった。

関連記事
英国の三枚舌外交と「植民地委任統治型支配」
「女海賊大全」より『アイルランドの海賊女王グレイス・オマリーの生涯』
「世界史をつくった海賊」竹田 いさみ 著
「ザ・フェデラリスト」A.ハミルトン J.ジェイ J.マディソン 著
「ネイティブ・アメリカン―先住民社会の現在」鎌田 遵 著
「〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ」下重 清 著
戦国時代の日常茶飯事「掠奪・奴隷狩り・人身売買」について
江戸時代の捨子たち~歴史・社会背景・捨子観の変化・幕府の政策など
歴史人口学から見た江戸時代農村の結婚について
昭和五年のスラム街もらい子大量殺人事件「岩の坂事件」

スポンサーリンク
スポンサーリンク

フォローする

関連コンテンツ

スポンサーリンク
スポンサーリンク