1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史

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スコットランド王国成立前史

およそ八世紀頃までにスコットランドには主に五つの民族が定住するようになった。ピクト人、スコット人、アングル人、古代ブリトン人、ノース人である。他にもノルウェー人やデンマーク人なども移住してきており、それぞれ複数の王国、部族に分かれて争っていたが九世紀半ばにスコット人のダルリアダ王ケニス・マカルピンがピクト人を支配下に治め(あるいはスコット人とピクト人の統合によって)アルバ王国が成立し1034年までに諸民族を糾合、十二~三世紀頃までには現在のスコットランドにあたるブリテン島の北半分にはスコット人の王に従う統一王権スコットランド王国が誕生していた。

1066年、ノルマン・コンクエストによってノルマン朝が誕生すると、スコットランド王国との間で幾度かの戦闘ののち、友好関係が成立した。デイヴィッド1世(在位1124~53)の代に先進的なイングランドの国制に倣って封建制の導入や広まりつつあったローマカトリック教会の改革などが進められ、多くのノルマン人がスコットランドに移住、やがてノルマン人が支配階層を形成していく。優秀なノルマン人の重用はスコットランドの政治経済を大きく発展させたが、一方でイングランドの力を背景とした諸侯の力が強まり相対的に王権が弱体化、1154年に誕生したプランタジネット朝の強大な軍事力の前にスコットランドは従属的な立場を余儀なくされた。

スコットランド独立戦争

比較的平穏な時代が続いていたが、1276年、イングランド王エドワード1世(在位:1272~1307)がウェールズ全土を支配下に治めると、1286年、スコットランド王アレクザンダ3世死後の王位継承問題に介入、軍事力を背景として対仏戦争にスコットランド軍を動員しようと威圧的な姿勢で臨んだため、1295年、スコットランドとフランスは以後二百七十年に渡って続く軍事同盟「古来の同盟」を結び、「スコットランド独立戦争(第一次:1296~1328、第二次:1332~57)」が勃発する。

圧倒的な軍事力のイングランド軍に対し、スコットランドは貴族から民衆まで一丸となって抵抗し映画ブレイブハートでお馴染みウィリアム・ウォレスやロバート・ブルース(後のスコットランド王ロバート1世)らの活躍でイングランド軍を撃退、1320年、ロバート一世の支持とイングランドに隷従する王はスコットランド民衆によって撃退されることなどを宣した「アーブロース宣言」を発表、1328年、スコットランド独立が認められて一旦終戦を迎える。

しかし、英雄ロバート1世死後の後継問題にイングランド王エドワード3世(在位1327~77)が介入して再戦となりイングランド軍がスコットランドを蹂躙、1346年には英仏百年戦争中のフランス軍と呼応して起こしたネヴィルズ・クロスの戦いで国王デイヴィッド2世(在位:1329~71)がイングランドの虜囚となって1357年、従属的な講和を余儀なくされた。戦後、復帰したデイヴィッド2世だったが困難極める統治に疲れイングランドへ逃走、彼の死後、家宰として国政を仕切っていたロバート・ステュアートがロバート2世(在位:1371~96)に即位し、ステュアート朝が開かれる。

ハイランドとロウランド

この百年に及ぶ戦乱による荒廃で現代まで続くイングランドとの遺恨がスコットランドの人々の間に芽生え、また、イングランド人と対置されるかたちでのスコットランド人意識が芽生えることとなった。また、特に後世まで大きな影響を及ぼすことになる「ハイランド」と「ロウランド」という区別も、十四世紀に登場してきている。

「ハイランド」は『スコットランドの北ないし北西に広がる高地地方と島嶼部』(高橋P16)を指す。戦乱の中でスコットランド王権の力が弱体化すると、旧来のケルト系諸氏族(クラン)の力が強くなり王権の統制を離れて独自の氏族社会を築いた。英語が広がったロウランドと違い、ケルト系のゲール語が十八世紀頃まで残ることになる。これに対し「ロウランド」は『中央低地――エディンバラやグラスゴウがある――と東部海岸平野、それに南部の丘陵地帯をあわせた地域の全体を指す』(高橋P16)。こちらは王権の下で貴族と住民とが結合して封建社会を形成、ロウランド人がすなわちスコットランド人という意識が強い。

十四~十五世紀に多民族多部族社会からハイランド人とロウランド人という二つの民族集団を中心とした社会への転換が起き、しかもその両者は反イングランドという共通点を除いてあらゆる面で互いに対立するようになる。このロウランドとハイランドの対立と共存が以後のスコットランド社会、ひいては英国を動かす大きな流れとなっていく。歴史上多くの例にみられるようにスコットランドもまた戦争によって引き裂かれた国となった。

スコットランド宗教改革

英仏百年戦争(1337~1453)、ばら戦争(1455~1485)と続いた戦乱を終結させてテューダー朝を開いたイングランド王ヘンリ7世(在位:1485~1509)は長く続いた諸外国との対立関係解消のため積極的な婚姻政策を採った。王子二人の妻としてスペインから姫を迎えて同盟を結び、慢性的戦争状態にあったスコットランドともジェイムズ4世(在位:1488~1513)に長女マーガレットを嫁がせることで和平を実現させた。この婚姻が後々大きな意味を持つことになる。

スコットランドでは十三世紀初頭までにカトリックが浸透、富裕な商人や有力な諸侯によって建設された自治都市ごとに教会を設置して隆盛を誇ったが、十六世紀になるまでに財力を蓄えて世俗化し、蓄えられた莫大な富を聖職者たちが独占、誰の目にも腐敗は明らかなものとなっていた。この点大陸諸国と同様である。ゆえに十六世紀初頭に始まる宗教改革の波はすぐにスコットランドにも押し寄せた。スコットランド宗教改革は1520年代にパトリック・ハミルトンらによって始められ、ハミルトンの殉教後、1560年代にジョン・ノックスによって一気に盛り上がっていく。

1559年、カルヴァン派の聖職者ジョン・ノックスがカトリック教会の偶像崇拝を激しく非難する説教を行い、それに触発された民衆が教会を襲撃、政府はこれを鎮圧する軍を編成するが、これに対してノックスは諸侯・民衆に呼びかけて軍を集め武力蜂起しようとする。かねてからカトリック支配に批判的だったスコットランド議会もノックスに同調して王権批判を強め、1560年、議会はローマ教皇権を否定する「スコットランド信仰告白」が採択された。ノックスは民衆、議会、諸侯、王権のパワーバランスを巧みに操りつつ主教制度を確立させていき、スコットランド長老派(プレスビテリアン)の創始者となる。

「古来の同盟」から「プロテスタント連合」へ

スコットランド宗教改革は対カトリックとは別に対フランス抵抗運動の側面を持つ。1542年、ジェイムズ5世が30歳で死去すると、残されたのは生後六日の幼児メアリだけであった。女王メアリ・ステュアート(在位:1542~67)である。イングランド王ヘンリ8世はスコットランド摂政アラン伯と図って女王メアリと王太子エドワードとの婚約を成立させるが、メアリの母メアリ・オブ・ギーズによってこれは履行されず、イングランドの侵攻を招くこととなり、これに対抗するべく、1548年、メアリ・ステュアートはフランスの王太子フランソワ(後のフランス王フランソワ2世)の妻としてフランスに行く代わりに軍事援助を受けることとなった。結果、君主不在の中で、フランス軍が駐留し実効支配を受けることになる。長く同盟関係にあった両国ではあったが、国内に反フランス感情が強く芽生えていった。

1558年、イングランドでは若き女王エリザベス1世が即位、イングランド情勢が不安定な状況となっている間隙を縫って、1559年、摂政メアリ・オブ・ギーズはフランス駐留軍の軍事力を背景にノックスに出頭命令を出す。これが前述のノックスの説教に至る背景で、裏目に出たのは上記の通り。1560年六月、摂政メアリ・オブ・ギーズは失意のうちにこの世を去り、同年七月、議会で「スコットランド信仰告白」とともに「エディンバラ条約」が締結されてフランス軍の即時撤退が決定した。265年続いた「古来の同盟」は終了し、イングランドとスコットランドのプロテスタント国同士が連携してフランスとスペインのカトリック国に対抗する「プロテスタント連合」が成立、これが後の同君連合(1603)、議会合同(1707)へ続く土壌となる。

1561年、母の死を受けて女王メアリ・ステュアートがフランスから帰国し親政を敷いたが、敬虔なカトリックであった彼女にとってプロテスタント国に変貌した故郷に居場所は無い。ノックスの厳しい批判に耐えつつ王宮儀礼を整えるなどの政策を採ったが、愛人ダーンリー卿殺害を巡るスキャンダルで支持を失い、1567年、廃位されイングランドへの亡命を余儀なくされた。ところで、彼女はイングランド王位継承権について言えば、ヘンリ7世の娘マーガレットの孫、すなわち嫡曾孫にあたり、一方エリザベス1世はヘンリ8世と二人目の妃アン・ブーリンの間の子であるため、エリザベスより上位にある。度々王位転覆の陰謀で名前が挙げられ、1587年、ついに処刑されることとなった。しかし、彼女の死は既に両国関係に大きな問題となることはなかった。

イングランド・スコットランド同君連合の成立

1603年、エリザベス1世が後継者ないまま死んだ。王位継承権はメアリ・ステュアートと愛人ダーンリー卿との間の子、スコットランド王ジェイムズ6世が持つ。ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの祖母はヘンリ7世の娘でスコットランド王ジェイムズ4世妃マーガレットである。マーガレットは夫の死後、スコットランドの有力貴族アンガス伯と再婚、二人の間に生まれたマーガレット・ダグラスが嫁いだのがダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの父である。ジェイムズ6世はマーガレットの孫二人を親に持った、非常に濃いイングランド王家の血統を持っていた。

スコットランド王をイングランド王として迎えることの効果を果たしてエリザベス1世はどれほど認識していただろうか。意図的であったのだとすれば凄まじい一手である。エリザベス1世はその統治下で、内乱を制し、フランスを退け、スペインを撃破し、アイルランドを屈服させて小国イングランドの基礎を築いてきた。そして、彼女が自身の死によって選んだのが、自身が命がけで守ってきたテューダー家の支配を自身の代で終わらせることによってイングランドがスコットランドを呑みこみブリテンを統一王権の下に置く、というものだ。しかし、スコットランド王は十六世紀を通じてメアリ・ステュアートを始め、代々、イングランドの王位継承権を盾に野心を見せてきた。スコットランド王次第で全てが無に帰すかもしれない大博打である。

同君連合初代国王ジェイムズ1世

後継者を託されたスコットランド王ジェイムズ6世(同君連合初代国王ジェイムズ1世)について、従来の歴史では否定的な見方が強かった。よく言われるのは、ジェイムズ1世はイングランドの国制を蔑ろにし、王権神授説を背景に絶対主義的支配を敷いて、圧政により多くの清教徒が新大陸に脱出、後を継いだチャールズ1世も父同様暴君であったため清教徒革命を引きおこした、というストーリーだが、近年の研究でこのようなホイッグ史観は否定されており、特にジェイムズ1世は再評価されている。

ジェイムズがスコットランド王に即位したのは、母が廃位された1567年、1歳のときだ。物心もつかぬ幼王はお飾りでしかなく、1568~73年にかけてスコットランドでは内乱が起き、1582年には謀反によって軟禁される事態にもなる。その軟禁状態から抜け出て反乱を鎮圧し、1584年から親政を開始すると、彼は慢性的に派閥抗争に明け暮れるスコットランドの政治改革に乗り出した。弁護士制度を確立し、裁判制度を整え、法の支配を徹底し、小貴族を組織して大貴族を掣肘し、腹心の部下を使って議会に議事運営委員会を発足させ、地道な努力で混乱の極みにあったスコットランドに秩序を回復した。1597年、王は息子に宛てた手紙で「この野蛮な争いを根絶するまで休んではいけない」(スマウトP88)と説いている。

「プロテスタント連合」を背景にイングランドに財政・軍事など幅広く依存していたが、弱体化する一方だった王権の権威を回復させ、派閥抗争と暴力の応酬に明け暮れるスコットランド社会に秩序をもたらした手腕はエリザベスにも高く評価されていたらしい。『ジェイムズは、エリザベスの後継者と目されていた』(ミチスン、スティヴンスンP107)。さしずめ創業のエリザベス、守成のジェイムズというところか。

同君連合に際して、スコットランド人は『共通の君主を戴く対等の二国』(ミチスン、スティヴンスンP109)としてスコットランドもイングランドも独自の政府を持つ展開を期待していた。一方で、イングランド側は『二国間の区別は存在するが、イングランドが支配的地位を占める』(ミチスン、スティヴンスンP109)のが当然だと考えた。しかし、エリザベスの後継者ジェイムズは『両国が完全に合同し、一つの新しい国家を形成する』(ミチスン、スティヴンスンP109)ことを理想として政策を進めることになる。『皇帝カール五世やスペイン王フェリペ二世にならって(中略)世界に冠たる「普遍君主」たらんとした』(近藤P119)。普遍君主ゆえに宗派を超えて王権神授説を採る。この三者のギャップをどう埋めるかが、ジェイムズ1世の最大の課題であった。

とはいえ、基本的にはイングランドの制度を基本に据えないわけにはいかない。両国の差異を出来る限り無くし、摩擦を軽減させて、最終的に政治統合を目指そうとしたが、容易にはならず、むしろ反発の方が大きくなる。そこをときに持ち前の調整力でなだめすかし、時に強権を用いながら、同君連合の舵取りを行った。王の『宮廷にはいつもスコットランドと往還する者がいて、複合君主制の情報も利益供与も怠りはなかった』(近藤P123)。しかし、最大のネックはやはりそれぞれ固有の誕生経緯を持つ二つのプロテスタント教会である。スコットランド長老派教会とイングランド国教会をどうするか、ひとまず国教会の優遇政策によってプロテスタント、カトリックの両派を掣肘し急進派を排除しつつ、この課題は次代のチャールズ1世に持ち越された。

チャールズ1世の失敗と清教徒革命

チャールズ1世(在位:1625~49)は残念ながら父ほどの卓越した調整力を持ち合わせていなかった。また、1600年生まれの若き王は物心ついたときすでに同君連合の王子であったから、父王ほどスコットランドについて理解が無かった。人望篤かった兄ヘンリ・フレデリックが早世せず王位を継いでいれば違った歴史があったかもしれない、とよく言われている。

折しも大陸では欧州全土を巻き込む三十年戦争の真最中で、ジェイムズ1世は娘婿のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世の後ろ盾として直接介入を避けつつも巧みな手綱さばきを見せたが、チャールズ1世は1628年、フランスに対し軍事行動に出て失敗、新たな戦費徴収のため議会を招集するが逆に「権利の請願」を出され、怒り心頭の王は議会を停止してしまう。宗教的にも中道路線を取っていた父と違い、国教会で対立する二大会派であったカルヴァン派・予定説の長老主義と恩寵普遍説・自由意志論をとるアルミニウス派の後者に肩入れして宗教対立の構図を作ってしまったことが、議会の反感を招いていた。

路線としては確かに父王が目指した普遍君主ではあるのだが、そのやり方は稚拙に過ぎた。チャールズ1世は暴君・専制君主というよりは、高い理想に見合う政治力を持っていなかっただけという方が妥当であろう。1637年、スコットランド長老派教会に対しイングランド国教会のやり方で祈祷を行うことを定めた「スコットランド共通祈祷書」を発布、これに反発した聖職者たちは貴族、地主らとともに「国民盟約」を結んでサボタージュを展開し、これをチャールズ1世は内乱と捉え軍事力で応えた。「主教戦争」の始まりである。頑強なスコットランド軍の思わぬ抵抗で行き詰ったチャールズ1世は1640年、戦費徴収のため改めて議会を招集するが、これが清教徒革命へとなだれ込んでいくことになった。

国王批判で紛糾する議会に業を煮やしたチャールズ1世は有力議員の逮捕に乗り出すが、これがさらなる反感を招き、内戦となる。議会とスコットランドは軍事同盟締結で合意、その交渉の際にスコットランドはイングランドが国教会体制を捨てて長老派教会制度を採用することを求め、これに賛同した議会の派閥を長老派と呼び、国王との妥協点を模索する動きを見せる。長老派に対し徹底抗戦を叫ぶのが独立派で平民層に支持され、やがてクロムウェルに率いられて革命の主力となっていく。独立派と商工業者らからなる平等派によって革命が急進的になると、長老派は国王に接近し、国王も妥協して国王率いるスコットランド軍対議会軍の構図となり、1648年から51年にかけての戦闘で議会軍がスコットランド軍を撃破し、チャールズ1世は処刑、王族はフランスへ亡命を余儀なくされ、1654年四月、スコットランドはイングランドに併合された。

護国卿クロムウェルの共和国体制下でスコットランドは強引にイングランド化が進められ、また、商人の保護を定めた航海法からスコットランド商人は排除されて経済的打撃を受け、英蘭戦争など対外戦争に駆り立てられるなど、反イングランド感情がさらに高まった。しかし、最も痛感させられたのは『小(スコットランド)が大(イングランド)を呑むことはないという、冷徹な現実』(ミチスン、スティヴンスンP116)である。スコットランドはどうあるべきか、次の王政復古~名誉革命期に彼らは大いに悩むことになる。

王政復古と名誉革命

1660年、クロムウェルの死後、共和政が斃れ亡命していた王子チャールズが帰国して王政復古が成った。チャールズ2世(在位:1660~85)は祖父ジェイムズ1世とよく似ている。16歳でフランスへの亡命を余儀なくされ、亡命政権の王として権謀術数渦巻く外交の舞台に立たされた。その経験もあって、彼は徹底的に政治力を磨くことができ、王に返り咲くまでに陽気な人柄、人当たりが良い振る舞いと駆け引きに長けた老獪さを身に着けていた。

対照的なのが彼の弟ヨーク公ジェイムズ(後のジェイムズ2世)である。同じく兄と共に亡命した彼は、フランスの名将テュレンヌらの下で軍略を学び、各地の戦場を駆け巡ってその才能を認められ若くして軍司令官として頭角を現していた。王政復古後、海軍長官に就任して軍政家としての手腕を如何なく発揮し、後のロイヤルネイビーの基礎は、彼と彼に仕えた実務家サミュエル・ピープスによって築かれる。

チャールズ2世は祖父に倣いバランスを重視した。イングランドとスコットランドにそれぞれ独自の議会が設けられ、スコットランドでは共和政期の破壊からの反動で商工業が盛んとなり、統治構造は衰退する封建制に変わって議会と司教制教会が地位を高めた。議会と教会を中心にして知的活動が活発化し、ステア伯爵やスコットランド検事総長ジョージ・マッケンジによってスコットランド法が体系化され、科学分野で人材を輩出するようになり、後に花開くスコットランド啓蒙主義の土壌が育ち始める。

1673年、ロンドンでは王弟ヨーク公ジェイムズがカトリックを信仰していることが明るみに出て大問題となっていた。チャールズ2世も信仰自由宣言を出すなど宗教に寛容な一連の政策を採っていたが、これがカトリック擁護ではないかと疑われるようになり、ヨーク公を始めとした要人が次々と公職から追放され、1679年にはヨーク公を王位継承から排除する王位継承排除法を巡って紛糾した議会を王が停止、排除法運動が全国的な広がりを見せ始める。排除法賛成派が後のホイッグ党、反対派が後のトーリー党へ発展することになる。結局法案は成立しないまま、1685年、チャールズ2世が死去、復権したヨーク公ジェイムズがジェイムズ2世(在位:1685~88)として王位に就く。

チャールズ2世の庶子モンマス公がこれに異を唱えて反乱を起こすがこれを鎮圧、さらに王は信仰自由宣言を出して国教会で読み上げさせ、反カトリック派の弾圧を始める。プロテスタント国でのカトリックの復権に危機感を抱いたプロテスタント勢力は結集して、1688年、オランダ総督オラニエ公ウィレムを新王に迎えることとし、ウィレムはプロテスタントの擁護を宣言して五万の軍を率いブリテンに上陸、ジェイムズ2世は軍が自身に従わないことを知りフランスへ亡命した。オラニエ公ウィレムは妻でジェイムズ2世の娘のメアリとともに英国王に即位しメアリ2世(在位:1689~1694)、ウィリアム3世(在位:1689~1702)となる。世にいう「名誉革命」である。

名誉革命体制下のスコットランド

王権の専制支配の禁止、議会の同意なき課税の禁止等が定められた「権利章典」とプロテスタント系非国教徒の信仰の自由などが定められた「寛容法」の制定からなる議会制度の進展として世界史上の画期とされる名誉革命だが、スコットランドから見ると終わりの始まりという側面が強くなる。

スコットランドにとってジェイムズ2世はカトリック政策を押しつけるなど様々な悪政もあって困った面はあっても、なんだかんだで我らの王である。また、王の放逐は清教徒革命を彷彿とさせ、その後の味わった苦難を思えば、名誉革命には強い危機感を抱かざるを得ない。穏健なスコットランド議会は国教会制度の廃棄と引き替えにウィリアムを支持したが、やがて議会もウィリアムから離れていく。

1688年からダンディー子爵ら一部のスコットランド貴族が叛旗を翻して戦端を開き、1689年、亡命したジェイムズ2世が、フランスの支援を受けて軍を率いてアイルランドに上陸、カトリックが根強いアイルランドは反ウィリアム色に染まっており、反革命戦争が勃発する。ウィリアムは自ら軍を率いてアイルランドに侵攻、1690年、ジェイムズ2世軍を撃破した。これは名誉革命と同時期に起きたプファルツ選帝侯位を巡るフランスと列強との戦争「大同盟戦争」の一環で、以後蘭英同君連合は対仏同盟の盟主として国際戦争の主役となっていく。ウィリアム3世にとってイングランド王位の獲得はオランダを脅かすフランスに対抗する兵力の増強に繋がる効果を狙ったものであった。名誉革命からナポレオン戦争終結までの約120年は第二次英仏百年戦争とも言われる。

国際戦争を戦うウィリアム3世は、後顧の憂いを除くべく、スコットランド、特にハイランドを拠点としてジェイムズ2世を奉じる「ジャコバイト(ジェイムズ派)」撃滅のためにあらゆる手を尽くした。アイルランドを制圧し、スコットランドに軍を進め、ジャコバイトの主力となっていたハイランドの氏族を制圧するために軍を展開した。

「グレンコーの虐殺」

1691年八月、ウィリアム3世はジャコバイトの氏族に対し、翌年1692年1月1日までに恭順の意思を示せば赦免するという布告を出した。グレンコーのマクドナルド族も十二月三十日、吹雪の中出頭するが、署名の場所は別だと言われ、130キロ離れたインヴェラリへと行かせられる。政府軍の足止めによって到着したのは一月二日、さらに州長官不在で署名完了は六日になった。これを政府は見逃さなかった。二月二日、密命を受けたアーガイル伯キャンベルに率いられた軍が税務調査の名目でグレンコーのマクドナルド族の集落に入り、散々歓待を受けた後、二月十二日深夜、寝静まった村人四百数十人次々と殺害して回り、三十八人が虐殺された。騒ぎを聞きつけて大半が夜陰に乗じて脱出に成功するものの、無抵抗の人々を一方的に殺害した「グレンコーの虐殺」として現在まで語り継がれている。

「グレンコーの虐殺」は、多くの脱出者があったことですぐに露見しスコットランドのみならずイングランドでも非難の声が上がったが、ウィリアム3世は事前に知らされていなかったと自身の関与を否定、関係者も形ばかりの辞任や逮捕だけで後に復権を果たしている。グレンコーの虐殺についてはイングランド史からはスコットランド長官ダルリンプルの独断によるもの、スコットランド史からはウィリアム3世の命があったものとして意見が分かれている。

ウィリアム3世によってスコットランド北部ハイランドのジャコバイト派諸氏族は壊滅的な打撃を受け、ハイランド地方は大きく衰退することとなった。

「ダリエン計画」の失敗

さらにスコットランドを痛めつけたのが継続される対仏戦争である。最大の貿易先であるフランスおよびその植民地との取引の制限はスコットランド経済を大きく毀損し、さらに1690年代には度々大飢饉がスコットランドを襲う。この打開策としてスコットランドの実業家ウィリアム・パターソンらによってパナマ地峡のダリエンに貿易コロニーをつくり中継貿易を独占するというダリエン計画が立案される。1695年、一度は王も認可したが東インド会社からの横やりで王は手のひらを返してダリエン計画を実行するスコットランド会社から資金の引き上げを命じ、これに対抗してスコットランド人がこぞって自己資金を提供、事業に乗り出すが、1700年までに全て撤退することとなり、スコットランド経済は壊滅的な打撃を受ける。このとき、スペイン艦隊からの攻撃にあうコロニーを救援もせず遠くから眺めるだけのイングランド艦隊に非難が集まった。

名誉革命体制の終わり

1702年、ウィリアム3世は落馬がもとで死んだ。死の床でも王はスコットランドとイングランドの統合を気にかけていたという。ウィリアムもまた、ジェームズ1世と同じ目標を持っていたのである。ただ、革命下の先鋭化する社会、フランスとの国際戦争という切迫した状況が彼を急がせ、強引で苛烈な手法を取らせることになった。それは、後々まで大きすぎる傷跡を残すことになった。よく名誉革命は無血革命と呼ばれるが、実際には、スコットランド・アイルランドにおいて非常に多くの血が流れたのである。両国で『ほとんど民族浄化に近い氏族殺戮をともなう戦いがあり、革命的決着(revolution settlement)がつけられた』(近藤P144)。

名誉革命体制が終わり、グレート・ブリテン連合王国誕生へのカウントダウンが始まる。

グレート・ブリテン連合王国の誕生

スコットランドの弱体化を推し進めたウィリアム3世は1701年、王位継承権をステュアート家の血を引くプロテスタントに限る王位継承法を制定、これは王位継承者からカトリックを排除した権利章典に続くもので、ジェイムズ2世の子「老僭王」ジェイムズの王位継承を完全に排除したものだった。ウィリアム3世の死後、ジェイムズ2世の娘、すなわちステュアート家の血を引くプロテスタントであるアンが女王に即位(在位:1702~1714)する。しかし、アンには子供がいない。では、アンの後継者は?一旦ジェイムズ1世に遡り、ジェイムズ1世の娘エリザベス(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の妻)の五女ゾフィーの子ハノーファー選帝侯家の当主ゲオルグ1世になる。次代にドイツ人の王を迎えることになるのは周知の事実であったから、特にスコットランド人は強い忌避感を覚えていた。

1704年、スコットランド議会は『古代からの王家の血統にしたがって王を選出する権利を保留する』(高橋P84)つまり、イングランドと違う王を選ぶ権利を放棄しないという「安全確保法」を採決し、対決姿勢に出る。これに対し、1705年、イングランド議会は『十か月後の同年のクリスマスまでにスコットランドが少なくとも合同準備委員を任命するのでなければ、両国間の貿易は停止され、スコットランド人はイングランドでは外国人扱いされるとした』(高橋P84)「外国人法」で恫喝に出る。対イングランド、植民地、さらに欧州の大陸諸国との貿易も実力で規制するとしたもので、これが施行されればスコットランドは生命線を断たれることになり、事実上の最後通牒である。

彼我の国力の差を考えればイングランドと戦火を交えるのは最早現実的では無かった。『合同を拒めば、またもや以前のように内部分裂や、王朝がらみの戦争、貿易上の妨害といった混乱の時代に逆戻りするのは目に見えて』(スマウトP203)おり、議員の『大多数が連邦制という緩やかな統合を望んでいた』(スマウトP203)が最早それも望み薄い。イングランドは断固として議会合同、すなわちスコットランド議会を解散しイングランド議会に統合することを譲れない要求に出してきている。ぎりぎりの条件交渉が進められ、議会合同を受け容れる代わりに、対外自由貿易、ダリエン計画等経済的損失への補償、教会、法、教育の独自性などが認められ、1706年合同法が成立。1707年一月十六日、スコットランド議会は解散し同年五月一日付でイングランド議会と合同し、「グレート・ブリテン連合王国」が成立、独立国家スコットランドの歴史は幕を閉じた。議会の議席はイングランド・ウェールズ513に対し、スコットランドは45でしかなく五対一の人口比に比べて過小で事実上の従属であった。

これに対する反発はやはり少なくなく、議会合同に反対するジャコバイトの反乱が相次いだ。各地でジャコバイトが蜂起し、1708年、ジェイムズ2世の子老僭王ジェイムズがフランス軍の支援の下で上陸作戦を敢行して失敗、以後1715年、1719年と大規模な反乱・蜂起があり、1745年にはオーストリア継承戦争(ジョージ王戦争)に乗じて老僭王ジェイムズの子チャールズがスコットランドに小規模な手勢で上陸し、反乱軍を組織してスコットランドをほぼ制圧、さらに南下してイングランド国境を越え首都ロンドンを脅かしたが、最終的にイングランド軍に敗れジャコバイトはほぼ壊滅、議会合同後四十年に渡る「ジャコバイト反乱」は沈静化に向かった。

民族としてのスコットランド人の誕生

高橋哲雄は十八世紀後半から十九世紀にかけて顕在化してくるスコットランド人意識についてこう分析している。

『一七四五年の反乱の始末がほぼついた一七六〇年頃から、これまでにない「スコットランドらしさ」、あるいは「スコットランド人意識」ともいうべきものが誕生、あるいは再生する動きがかたちをとりはじめた。その一つは大きくいって、ハイランド的価値を再認識し宣揚し、それをスコティッシュ・アイデンティティの柱に押し立てようとする動きで、私はそれを「ロマンティック・ナショナリズム」と、ひとまず呼びたい。
もう一つは、あくまでもロウランド的価値のよきものにこだわり、それをつよく押し出す方向に立つもので、その核心にはカルヴィニズムがあり、それに根ざす労働倫理や高いリテラシー、さらには聖俗の交流があった。それをおおまかに「カルヴィニスト・アイデンティティ」と呼ぶとしよう。それに合邦によるイングランドや大陸との文化交流の流れが加わり、「スコットランド啓蒙」の名で知られる奇跡的な学芸の興隆と、それと表裏の関係に立つ産業、技芸の発展の時代が出現した。ここに国民意識の絆が生まれる。政治的<国家>の消失と入れ替わりに文化的<国民>が誕生したのである。』(高橋P88-89)

政治的独立を失い、経済的融合を果たし、社会的従属関係に置かれる中で、ロウランドがハイランドの文化を吸収していくことでイングランド人とは決して相容れない文化的差異を持つ想像の共同体としてのスコットランド人が創られる。社会学者ジグムント・バウマンの言を借りるなら、コミュニティが壊れたときアイデンティティーが生まれたのである。そして、エリザベス・ジェイムズ以来の同化の夢はここに潰えたのだ。

ヤマアラシのジレンマとしての二国間関係

スコットランドは、産業革命によってまず毛織物が、十九世紀に入り重工業が栄え、やがて世界の工場として大きく飛躍する。独立と引き替えに経済の繁栄を得た格好だが、一方で十八世紀を通じて行われた囲い込みによって特にハイランド地方の農民を中心に職を失って都市に流入し、あるいは新大陸への移民となった。経済繁栄と人口流出とがほぼ同時期におきて大都市と地方の格差、貧富の差が歴然となっていった。十八世紀まで教会制度に基づく福祉が行われていたが十九世紀に入り工業化と都市化によって教区単位での福祉は機能しなくなった。ヴィクトリア期の繁栄と矛盾は二十世紀に入って重工業の衰退とともに社会問題として顕在化する。

スコットランド啓蒙的な自由主義の伝統は多くの企業家を育て経済繁栄を推進したが、一方で雇用・貧困対策は後手に回って問題を先送りした。十九世紀後半からその兆しは明らかだったが、重工業が完全に衰退した第二次大戦後、喫緊の課題として浮上したのは住宅、雇用、教育、貧困対策など福祉の諸問題であり、社会的不平等の問題であって、政府による福祉の拡大・充実が望まれたが、経済力の低下はスコットランドの地位の低下を意味してスコットランド政策は軽視され、1970年代に北海油田の採掘が本格化して持ち直すも、1980年代のサッチャー政権はむしろ福祉の削減を進めたから、スコットランドとイングランドの政策のギャップは拡大、1970年代以降スコットランド・ナショナリズム運動が盛り上がり90年代に労働党政権を生み出すことになる。期待を集めたブレア政権もまた、不徹底な地方分権がむしろ問題を先送りにするだけで、主にイラク戦争など外交問題で失墜し、90年代のナショナリズム運動は福祉政策重視の独立・自治権拡大運動へと転換、2014年の住民投票へと繋がっていく。

「ヤマアラシのジレンマ(porcupine dilemma)」という社会心理学用語がある。寒空の中二匹のヤマアラシは寒さを凌ぐため体を寄せ合おうとするがお互いの針が刺さって傷つけあってしまう。お互い傷つけあいながらもなんとか適度な距離を見つけようとする、というショーペンハウエルの寓話をフロイトが紹介し、1970年代に米国の心理学者レオポルド・ベラックが人間関係の距離の取り方を分析した論考で名付けたものだが、その日本語訳「山アラシのジレンマ―人間的過疎をどう生きるか」(1974)の解説で小此木圭吾氏がフロイトの言を紹介するかたちでヤマアラシのジレンマの例としてイギリス人とスコットランド人を挙げている。隣り合う二国として千年に渡り二匹のヤマアラシは適度な距離を探してお互い傷つけあってきた。多くの場合、一方にとって居心地の良い距離が他方にとっては我慢を強いるものであり、針をぶつけ合うたびに多くの血が流れてきた。これからはお互いが針を刺しあうのではなく、自身の針の長さを伝えることで二匹のヤマアラシは居心地の良い距離を模索していかなければならない、ということを、より多くの血を流し、我慢を強いられてきたスコットランドは痛感してきただけに、今回の住民投票へと繋がっていったのだろう。

参考書籍
・「スコットランド 歴史を歩く (岩波新書)
・「スコットランド史―その意義と可能性
・「スコットランド国民の歴史
・「イギリス史10講 (岩波新書)
・「イギリス史 (世界各国史)
・「近代ヨーロッパ国際政治史 (有斐閣コンパクト)
・「民衆の大英帝国―近世イギリス社会とアメリカ移民 (岩波現代文庫)
・「山アラシのジレンマ―人間的過疎をどう生きるか (1974年) (ダイヤモンド現代選書)
・「コミュニティ 安全と自由の戦場

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