古代ローマから英国海軍まで欧州を中心に近代以前の海戦の歴史

スポンサーリンク
スポンサーリンク

序章 船の誕生

船の誕生がいつのことだったか、はっきりとしたことはわからないが、少なくとも紀元前八千年頃にまで遡ることが出来る。

有史、人類は木の幹を束ねて「筏(いかだ)」を作り、長い棒きれを「櫂(オール)」にして海に浮かべ沿岸に漕ぎ出した。あるいは筏ではなく丸太を一本浮かべただけだったかもしれないし、皮袋だったかもしれない。次の段階、束ねた木の前方を削り流線形にしてより進みやすく改造する。「船首」と「船尾」の区別の始まりだ。やがて巨大な樹木をくり抜いたカヌーや、木々を組み合わせた骨組みにパピルスやイグサ、丈夫な樹皮を張り付けて防水加工した船を造り始める。

紀元前四千年中期、世界最古の帆掛け船がメソポタミアに登場、紀元前四千年後期のエジプトでもより改造された帆掛け船が見られるようになる。「マスト」と「帆(セイル)」の誕生は最初の画期であった。ゆっくりと技術革新を繰り返しつつ海上移動・運送に使われていた船は、人類の発展と共に戦争の道具として使われ始める。

有史から近代までの海戦史は四つの時期に大別される。
ガレー船の時代(~十六世紀末)
帆走船の時代(十六世紀末~十九世紀半ば)
装甲船の時代(十九世紀半ば~1930年代)
空母航空戦力の時代(第二次世界大戦以降)
ここでは、十九世紀半ばまでの海戦の歴史を、欧州を中心に振り返ってみたい。(さすがに近代以降は複雑かつ多岐に渡るため僕ではまとめきれない)

第一章 ガレー船の時代(~十六世紀末)

1)ガレー船の登場

ガレー船は、人力による櫂を動力とし、船首に突撃用の衝角を持った戦闘用に造られた軍船である。幾度も技術革新を重ねて古代から十七世紀まで主力として活躍し続けた。ガレーと名付けたのは九世紀の東ローマ帝国皇帝だといわれるが、同様の型はおよそ三千年前にまで遡ることができる。

海戦の歴史は、古くは紀元前十二世紀、第二十王朝の王ラムセス三世が侵入してきた「海の民」撃退のために艦隊を派遣したという記録が残っているが、王権の衰退とともに造船技術は衰え、代わってエーゲ海のフェニキア人やギリシア人が海戦史の開闢として登場する。紀元前七~五世紀ごろ、ギリシア人が建造したのが「三段櫂船(トライレム)」である。その名の通り、動力となる櫂を漕ぐ座席を上下三段に設置した大型船で、乗員200名前後、そのうち漕ぎ手は約170名に上ったという。「三段櫂船」は小回りが利き、かつ敵船にぶつけたときの破壊力が抜群で、一気に海戦の主力となった。その後四段櫂船、五段櫂船なども登場している。

古代から中世に至るガレー船時代の海戦ではスピードが重視され船首の衝角による突撃攻撃と白兵戦が主で、帆は追い風を利用するための横帆が付いているに過ぎない。次の技術革新は九世紀、「三角帆(ラティーン・セイル)」の発明だ。これによってガレー船は風向きに関らず移動できるようになり、1400年代までにガレー船は複数の三角帆を備えるようになった。1450年頃、舵が現代同様に船尾の中央線上につけられ、大砲が船首正面に備えられるようになる。

ガレー船時代の戦術は、前述の通り、船首の衝角による突撃攻撃と白兵戦が中心である。まずスピードを生かして敵船に突撃して敵船を破壊し沈没させる。最初の突撃で敵を倒せなければ、兵士たちが敵船に乗り込んで白兵戦によって勝敗を決する。白兵戦時には最初に弓矢や投げ槍などの遠距離攻撃が行われ、やがて弩が弓矢に代わり、十五世紀末から小銃が登場、十六世紀までに大砲が搭載されたが命中精度は高くなかった。

ガレー船時代の海戦で重要なのは機関部である漕ぎ手を守ることだ。相互に連携して漕ぎ手を守りつつ船首の衝角を敵艦隊に向けて突撃を行うために考案された陣形が、艦隊を横一列に並べた「単横陣」であった。

2)古代ローマの海戦

ガレー船時代の代表的な海戦に、サラミスの海戦(前480年)、ペロポネソス戦争(前431~404)、第一次ポエニ戦争(前264~前241)、アクティウムの海戦(前31年)、赤壁の戦い(208年)、白村江の戦い(663年)、壇ノ浦の戦い(1185年)、スロイスの海戦(1340年)、プレヴェザの海戦(1538年)、レパントの海戦(1571年)などがある。

この中でも第一次ポエニ戦争からのローマ海軍の勃興は海戦史上特筆される。紀元前264年、ローマとカルタゴの間にシチリア島を巡る戦争が勃発、地中海の覇権を巡る長い戦いの始まりだった。数々の海戦が繰り広げられ両者一進一退となるが、充実の海軍国であるカルタゴにたいして、実は開戦前、ローマには軍船が存在していなかった。ローマは戦前、難破したカルタゴの五段櫂船を手に入れ、見よう見まねで一年で百隻もの船団を整えたという。また「コルヴス」という鉤つき吊り橋を作成、海戦になれば相手の甲板に吊り橋をかけ、一気に兵士を送り込む戦術を考案した。船員の熟練度ではカルタゴに劣るが陸戦ではローマが勝っていたから、白兵戦に持ち込むことで海戦でもローマ軍の長所を生かすことが出来る。

戦前一隻も無かったローマ海軍は八年後の前256年には330隻の艦隊をカルタゴに派遣、カルタゴも350隻の艦隊で迎え撃ち、両者互角の戦いを繰り広げた(「エクノムスの海戦」)。続く、前249年の「リリベウムの戦い」ではローマが310隻の艦隊を派遣、しかし、カルタゴはコルヴス封じの作戦として風雨が激しい悪天候を選んで夜戦を敢行し、ローマ艦隊は187隻が沈没、93隻が拿捕という総兵力の九割を失う壊滅的打撃を受ける。だが、ローマの強さはここから発揮される。八年後の前241年には壊滅した艦隊を200隻にまで回復させ、油断していたカルタゴを奇襲、カルタゴ艦隊50隻を沈めシチリア島を制し、西地中海の制海権を確保すると以後戦争を有利に進め、第二次ポエニ戦争でハンニバル将軍の抵抗はあったものの、第三次ポエニ戦争で前149年にカルタゴを滅亡させ大帝国への道を歩み出した。

貪欲に技術を海外から学び、幾度負けてもその都度艦隊を再建しうる生産力を背景にして何より制海権の確保を重視し、敗戦をばねに戦術と作戦指揮を徹底的に向上させることが海戦の勝敗を決するというローマの先例は、オスマン帝国、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、そして二十世紀のアメリカに至るまで海戦史に繰り返し見られることになる。

ガレー船は武装や大きさ、型式に変化があったものの、その基本構造は大きな変化がなかった。ガレー船の時代は、同時進行で商船として発展していた帆走船の技術革新によって終わりを告げることになる。

第二章 帆走船の時代(十六世紀末~十九世紀半ば)

1)帆走船の登場

近海での戦闘用に用いられたガレー船など櫂漕型の船に対して、外洋航海用に発達したのが帆走型の船であった。八世紀から十一世紀にかけて北欧で「ヴァイキング船」が登場、長方形の横帆と櫂で推進された全長25メートルにも及ぶロングシップであった。続いてヴァイキング船の発展形として十三世紀から十五世紀にバルト海から北大西洋の広い地域にかけて「コッグ船」が登場、その改良型として登場したのが操舵性と外洋航海力を著しく高めた「カラック船」である。北方の横帆と地中海の三角帆を組み合わせフォアマスト、メインマスト、ミズンマストの三本マストで構成され後部のミズンマストに三角帆が用いられた。「カラック船」とポルトガルに登場する同様の構造の「カラヴェル船」によって、大航海時代の幕が開いた。コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、エンリケ王子、マジェランなど名高い航海者はいずれも「カラック船」「カラヴェル船」を使っていた。

ここまでの帆走船はいずれも戦闘には不向きで主に商船・外洋航海船として発展してきたが、カラック船になると大砲を搭載するようになり、徐々に軍用化されはじめる。これを一変させたのが十六世紀半ばに「カラック船」の改良型として登場する「ガレオン船」である。

2)ガレオン船の登場と戦術

「ガレオン船」は「カラック船」を大型化し武装強化したもので、十六世紀半ばのイングランドとスペインで建造された。当初船首と船尾双方に船楼が備えられたが後に船首の船楼は取り払われ様々な改良が加えられて運動性能が強化、船の下甲板から砲撃が出来るように側面に大砲が並べられ、大口径カノン砲などが搭載、さらにガレー船同様に衝角も持っていた。

「ガレオン船」の登場は海戦に軍事革命を起こした。それまで海戦の中心であった突撃から白兵戦という近接戦ではなく、大砲による遠距離攻撃が主流となり、白兵戦の兵力数ではなく火力の強化と艦隊の統一的な運用とが戦術の中心になった。

「ガレオン船」の登場によって陣形もまた大きく変化する。側舷からの一斉砲撃が戦術の中心となり、その最良の陣形として考案されたのが全艦縦一列に並ぶ「単縦陣」である。基本的に艦隊が会敵して船の横面に備えた大砲から敵艦隊に一斉砲撃を加えるため、敵味方双方とも同方向を向いての砲撃となる。これを「同航戦」と呼ぶ。これに対してすれ違いざまに両艦隊が会敵するのが「反航戦」である。

帆走船の時代、まず海上覇権を担ったのがオランダであり、続いて英国が取って代わった。イングランド海軍の草創から発展の過程がそのまま海戦における戦術の進化の歴史と重なり合うことになる。

3)アルマダの海戦

帆走船時代の海戦の幕開けとなったのが史上名高い「アルマダの海戦」(1588年)である。オランダ・アイルランドを巡ってイングランドとの対立深まるスペインは1588年、ついに精強で知られるスペイン無敵艦隊をイングランド打倒のために出撃させた。最新鋭の大型ガレオン船20隻を中核とする130隻の大艦隊である。ただ、出撃直前に名提督として知られたサンタ・クルズ提督が死去し海戦経験の無い大貴族シドニア公が率いることになった。おそらく寄せ集め以上ではないと思われるイングランド艦隊を一蹴してネーデルラント駐留のパルマ公率いる精鋭陸戦部隊と合流、イングランドに上陸、占領する、という計画である。

対するイングランド女王エリザベス1世は大貴族のチャールズ・ハワード卿を総司令官に、海賊フランシス・ドレイクジョン・ホーキンズを副司令官につけ無敵艦隊を迎え撃つ。1588年7月21日、プリマス沖の海戦で両軍が激突することになるが、ドレイク率いる英艦隊は夜間を利用して無敵艦隊の背後に回り込むと長射程のカルバリン砲によるアウトレンジ攻撃で無敵艦隊を近づけない。無敵艦隊は昔ながらの近接攻撃を重視していたので短射程のカノン砲しか積んでいなかった。カルバリン砲は火力が弱く致命傷を与えることは出来ないが、スペイン艦隊を動揺させるには充分で、一方的なアウトレンジ攻撃と相次ぐ奇襲攻撃に戦闘不能になる船が続出した。

スペイン艦隊は英艦隊との交戦を諦めてパルマ公との合流を優先するために転進、一定の戦果を得て英艦隊も撤退した。シドニア公は英艦隊の遠距離攻撃に対抗するため円形陣に艦隊を再編して翌日ポートランド沖で英艦隊と二度目の交戦があるが、近接攻撃に持ち込みたい無敵艦隊の突進を英艦隊が巧みにかわしつつカルバリン砲の遠距離攻撃でボディブローのようにダメージを与え続けるという巧みな艦隊運用を見せ、終始戦局を有利に進める。

8月8日、パルマ公との合流と補給を企図してカレー沖に密集して停泊していたスペイン艦隊に英艦隊が夜襲をかける。まず八隻の火船が突入して爆発、スペイン艦隊は大混乱に陥り、陣形が崩れて各艦隊が四散し始める。これに英艦隊が集中砲火を浴びせた。これまで長射程低火力のカルバリン砲を使っていたがこの海戦の前に火力重視で命中精度の高い短射程砲に全て積み替えられており、無敵を誇ったスペイン艦隊は次々と各個撃破されていった。その後の風雨などにも晒され、結局スペインに帰り着いたのは半数以下の67隻であった。

アウトレンジ攻撃」と「ヒットアンドアウェー戦術」とを組み合わせ、それを可能とする効率的な艦隊運用と作戦指揮という戦術の基本中の基本が初めて体系的に登場したのがアルマダの海戦であった。スペインは最新鋭の艦船を多く揃えたが古い近接戦術に固執し柔軟な艦隊運用を欠いた点、作戦計画の段階で上陸作戦を重視して海戦や制海権の確保を軽視していた点などが敗因として挙げられる。ただ、これでスペインが没落したわけではなく数年後には無敵艦隊は再建され、アイルランド独立戦争に援軍を派遣してもいる。スペイン海軍の衰退はアルマダ海戦の敗北によってではなく、その後十六世紀後半から十七世紀半ばにかけてゆっくりと進んだ経済の疲弊にともなう国力の衰退によるものであった。

ちなみに、アルマダの海戦とほぼ同じ時期、フェリペ2世と全く同じ失敗をしたのが豊臣秀吉である。朝鮮侵攻の際、陸戦に気を取られ海上の防備をおろそかにしたことで、李舜臣率いる少規模の艦隊により次々と各個撃破されて軍船の大半を失い侵攻部隊が孤立、多大な犠牲とともに撤退を余儀なくされた。

4)英蘭戦争とロイヤル・ネイビー

アルマダの海戦によってイングランドが制海権を握り世界帝国へ、という一昔前の通俗的な見方はすでに過去のものだ。アルマダ以後着実に海外植民地を築き海上貿易を進めていくことにはなるが、エリザベス女王はアルマダの海戦は一時的な勝利としか考えなかったし、むしろエリザベス以後ステュアート朝との同君連合時代に海軍は縮小され衰退する。再建はピューリタン革命後、護国卿クロムウェルの手による。

この時代、オランダとの海上交易を巡る対立が戦争を惹起し、第一次~第三次英蘭戦争(1652~54、65~67、72~74)となった。オランダは八十年戦争を経て独立し、同じく三十年戦争でバルト海の制海権を掌握したスウェーデン=バルト帝国とともに欧州の海上通商を一手に担い、十八世紀初頭まで欧州経済に支配的な地位を築いた。この海上帝国への挑戦の過程でロイヤル・ネイビーの基礎が徐々に形作られていく。

英蘭戦争でオランダのマーティン・トロンプ提督と英国のロバート・ブレイク提督と言う二人の名将の対決は一進一退の攻防となり両国はしのぎを削る中で海軍の組織を徐々に近代化させていった。

5)帆走船時代の海戦戦術の洗練

第一に戦術単位としての戦隊の創設、第二に戦略としての「制海権」概念の誕生という戦術・戦略思想の登場である。次に、英国では「単縦陣」を基本的な陣形として風上からの攻撃と鉄則とする世界初の戦術規則が明文化された。これらによって「戦列」という概念が制定され、それまで個艦単位で戦っていた海戦が集団戦闘に変化した。戦列を構成するガレオン船を改造した主力の大型艦「戦列艦」、戦列艦より小規模軽武装で哨戒・索敵・護衛などを任務とする高速船「フリゲート艦」という船種が誕生した。私掠船・傭兵が主力艦隊から徐々に退けられ、正規軍化が進展する。さらに戦術を伝達する信号として「手旗」が体系化された。

1688年の名誉革命によってオランダ総督オラニエ公ウィレムが英国王ウィリアム3世となって以降は英蘭とフランスとの対立構造となり、この英仏両国の対立を軸に近世欧州の国際政治は動いていくことになる。

6)官僚主義化する英国海軍

十八世紀に入るとオランダ、スウェーデンの衰退とともに英国が海軍国として力をつけ海上通商に優越的な地位を築き始める。英仏は度々海戦で戦火を交えたが、英国の戦略目標は敵艦隊の撃滅と制海権の確保であるから、風上側から単縦陣で仕掛け砲撃を重視する。対するフランスは敵の攻勢を阻止して上陸を防ぐという防衛戦略が戦略目標であるから退却しやすい風下側に展開して相手艦のマストやセイルを狙い航行不能にすることを重視する。ともに合理的な戦術論理に基づいていたが、その繰り返しで、次第に海戦がマンネリ化するにつれて、英国海軍に広がっていたのが思考の硬直化であった。

官僚主義的傾向が強まった結果として英海軍を呪縛したのが「単縦陣」を定めた戦術規則が金科玉条化したことだった。英蘭戦争中に軍政家として辣腕を振るった海軍長官ヨーク公(のちの国王ジェイムズ2世)らによって定められた戦術準則は「戦列」維持の厳守による単縦陣を基本戦術としたが、官僚機構化が進む過程で戦術準則の制定は海軍省上層部で決定されるようになり、これに違反すると軍法会議が待っていた。「単縦陣」の維持が神聖不可侵な伝統となり、十八世紀に英海軍は凋落の一途を辿る。また、官僚主義は年功序列を生み、七~八十代の艦隊司令官、六十代の提督たちと、上層部の高齢化が進んだ。

七年戦争は首相大ピットの指揮と政略で大勝利となり、海戦でもホークら優秀な提督が登場して勝利を重ねたが、局地的な海戦では幾度も無能な指揮官たちによって手痛い敗北を喫しており、アメリカ独立戦争ではハウやケッペルといった優秀な提督を戦争中にも関らず次々と政争に巻き込んで失脚させてしまいフランス=アメリカ連合軍に「チェサピーク湾の海戦」で致命的な敗北を喫しアメリカの独立を許すことになる。

このアメリカ独立の衝撃が英海軍を「単縦陣」の呪縛から解き放つことになった。産業革命を背景とした小ピット首相主導の国政・経済改革を前提としつつ、敗戦の反省から英海軍では機構改革が進み、若く有能な将帥が次々と抜擢されて、古い伝統への固執は影をひそめていった。その結実が「トラファルガーの海戦」であった。

7)トラファルガーの海戦

植民地アメリカの独立に続いてフランスで勃発したブルジョワ革命は怒涛の速さで先鋭化し腐敗し独裁へと突き進んだ。革命の拡大を恐れる諸国は英国を中心に対仏大同盟を結びフランス革命政府に対抗するが、その戦乱の中で戦争の天才ナポレオン・ボナパルトの台頭を招来、フランス皇帝ナポレオン1世となった彼は、英国を最大の敵として対決姿勢で臨んだ。

フランス艦隊を率いるピエール・ヴィルヌーヴ提督をナポレオンは優柔不断として嫌っていたが他に適任者が見つからず嫌々ながら任命したらしい。1805年1月から7月にかけてヴィルヌーヴ艦隊はカリブ海から大西洋にかけての一帯で英ネルソン艦隊を追って無様な鬼ごっこを演じることとなり、ナポレオンはその失態に怒り心頭で彼を更迭する。ただ、その前にイタリア方面への出撃命令も出しており、出撃命令に続いて更迭命令を受け取ったヴィルヌーヴ提督は震え上がって名誉回復のために無謀な出撃を行うことになった。

10月19日、フランス艦隊33隻がカディス港に姿を現すと、カディス港を監視していた英フリゲート艦に発見され直ちにネルソン提督へと報告される。これを受けてネルソン艦隊27隻がジブラルタル海峡で待ち伏せするべく北上、10月21日、ネルソン艦隊にも想定外のことであったが、両軍がトラファルガー沖で遭遇することとなり、史上名高い「トラファルガーの海戦」が始まった。

遭遇時、フランス艦隊は五個戦隊に分かれていたが、ヴィルヌーヴはこれを一つにまとめて単縦陣に再編する指示を出す。しかし、単縦陣で戦線が伸びきってしまい、分断される恐れを感じて一斉回頭と緊縮陣形への変更を命じるが、これにもたついた。

風上につけたネルソン艦隊だったが思うように速度が出ない。ゆっくりと近づきつつ、仏艦隊が北へ回頭するのを見てカディスに撤退すると判断し、撤退阻止を各艦に伝達する。このとき、伝えられた命令が、後に日本海海戦で東郷提督も模倣する名高い”England confines that every man will do his duty”(英国は各員がその義務を尽くすことを期待する)であった。各艦士気が上がる中、ネルソンの盟友として知られた艦隊次席指揮官コリングウッド提督はこの信号を受け取って「そんなこと、言われんでもわかっとる」と毒づいた。

英艦隊はコリングウッド率いる15隻とネルソン率いる12隻の二戦隊で、まずは12時10分、コリングウッド提督旗艦「ロイヤル・ソヴリン」が敵戦列を突破して分断に成功すると、続いてネルソン提督旗艦「ヴィクトリー」がヴィルヌーヴ提督旗艦「ビュソントール」を発見し交戦に入る。以後次々と英艦隊がフランス艦隊に襲い掛かり、17時までに戦闘が終結した。終わってみれば、英艦隊の損失0隻に対し、仏艦隊は18隻が撃沈されネルソン艦隊の圧勝となった。ただし、乱戦の最中にネルソン提督は銃弾に当たって戦死を遂げた。

8)ネルソン・タッチ

この海戦が殊更注目されるのは、物語のようなドラマチックな展開やナポレオンの侵略から死して英国を守った英雄ネルソンという英国のナショナリズムを高揚させる構図という面もあるが、重要なのはネルソン提督の「ネルソン・タッチ」と呼ばれる戦術が海戦戦術の革新となったことだった。「ネルソン・タッチ」の要旨を小林 幸雄 著「図説イングランド海軍の歴史」から引用すると以下の通りである。(P445-446)

(1) 単縦列の戦闘序列を千変万化の洋上では愚行に等しいとして破棄したこと。
(2) 艦隊が相互に支援し合うテューダー朝時代の戦術を復活させたこと。
(3) 強力な戦隊を敵の後尾に投入し、もう一つの戦隊に援護させること
(4) 作戦意図を秘匿するため、一見無秩序な戦隊配備で接敵して、敵が回避時期を失するように工夫したこと。
(5) 右の四つを組み合わせて、兵力を一点に集中すること。

この実行のため、事前の作戦準備や戦術の浸透を徹底し、かつ、臨機応変に対応するために、手旗信号での通信と敵情報の収集や索敵が非常に重要になる。古い手法への固執から脱却し、陣形に拘らない柔軟な戦術指揮へ、通信と情報の重視へと海戦が大きく転換することになった。

ナポレオン戦争以後、英海軍は見違えるように強くしたたかになり、海軍国としてその名を轟かすことになる。それは侵略戦争と植民地拡大の歴史でもある。

トラファルガーの海戦からほどなくした1807年、変り者のアメリカ人発明家ロバート・フルトンが蒸気機関を積んだ100トンの大型船の航行実験を成功させた。ハドソン川で、4.5ノット(時速9キロメートル)で走る船を見て本人は大喜びだったが、周りの見物人は「フルトンの愚行」と呼んだ・・・。

9)帆走船から蒸気船へ

蒸気船は当初非現実的な笑い話でしかなかった。風は無料なのになぜ高価な燃料を、しかも大量に積んで船を動かさなければならないのか。

しかしフルトンを初めとした発明家たちが熱心に蒸気船の実用化に向けて実験と研究を重ね、その可能性に賭ける企業家たちが次々と蒸気船を使った旅客業や運送業を始めると、凄い勢いで蒸気船が実用化される。

1807年のフルトンの実験成功からわずか12年後の1819年にはアメリカの汽船「サヴァナ」が大西洋横断に成功、1825年蒸気機関併用の帆前船「エンタープライズ」がロンドンからカルカッタまでほぼ蒸気機関で航海に成功、1836年、「グレート・ウェスタン汽船会社」によって史上初の蒸気船による大西洋定期船「グレート・ウェスタン」が就航、1846年、同社の水かき車輪に代わりスクリュー・プロペラーを装備した「グレート・ブリテン」が大西洋横断に成功。蒸気機関の実用化が進み、骨組み構造に鉄が使われ始め、商船・客船が急激に巨大化する。1858年に進水した「グレート・イースタン」号は全長207.26メートル、総トン数1万8914トンにも及ぶ。

様々な技術革新が帆走船から蒸気船への移行を後押しした。鉄の腐食を防ぐ防汚塗料が発明され、鉄が磁気コンパスを狂わせるという問題も様々な実験によって克服され、蒸気機関とセットで登場した水かき車輪の壊れやすさという問題はプロペラーの登場で解決される。造船技術の発達によって木造船よりも鉄船の方が、強度が高く、かつ軽量化できるようになり、船舶の大型化による輸送量の飛躍的増大は海運業を大きく栄えさせる点で燃料問題を退ける大きなメリットとなった。

十九世紀半ばから蒸気機関併用の帆走船が各国海軍に採用されるようになり、1853年には米海軍の蒸気機関併用フリゲート艦サスケハナ号率いる七隻の艦隊が日本に来航、「黒船」と呼ばれ日本の歴史を大きく動かすことになる。

10)技術革新と装甲艦時代の開幕、そして近代海戦へ

そして、蒸気機関で動く木造の軍艦は非常に早い時期に「装甲艦」へと進化する。きっかけは「クリミア戦争」(1853~56)で行われた「シノープの海戦」(1853)であった。同海戦でロシア艦隊は新型の炸裂弾を用い、木造船からなるオスマン艦隊を一方的に壊滅させる。急激な技術革新によって兵器の火力が格段に進化し、最早木造船では戦争にならないことが明白となった。1859年、フランスが蒸気機関の木造フリゲート艦を鉄板で覆った装甲艦「ラ・グロワール」を完成させると、同年英国も全鉄製の蒸気機関で動く装甲艦「ウォーリア」を建造、これが史上初の「戦艦」である。

装甲艦化とほとんど卵か鶏かの様相なのが艦載兵器の進歩である。火力の進歩に対して軍艦が装甲艦化すると、装甲艦に対して有効な攻撃を行える兵器が続々と開発される。大砲には砲身に旋条(ライフル)が施されて命中精度が高められ、先込め式から元込め式へと代わり、鉄製の砲架に備え付けられ、やがて砲塔化した。他にも小口径の速射砲や機関砲が開発、また、昔ながらの火船攻撃は「水雷」の発明によって消えた。「モービル湾の海戦」(1864)で勝者となった北軍ファラガット提督が吐いた「機雷がなんだ、全速前進!」は(実際に言ったか疑問も呈されているが)海戦史上有名である。

日進月歩の勢いで海戦は様変わりして帆走船時代が終わり、近代戦争へと至る装甲艦時代が幕を開けた。蒸気機関に変わって内燃機関が実用化され、ディーゼル・エンジンが登場、軍艦とともに潜水艦が誕生して海戦は多様化、戦術の革新が次々とおこり、海軍力が国力を示す指針となって、各国は国威発揚のためにその増強につとめていく。そして、1905年の英戦艦「ドレッドノート」の衝撃を契機として第一次大戦前後の大艦巨砲主義に基づく建艦競争が始まり、やがて航空戦力が主力の時代となって第二次大戦を迎えて行くことになる。

続きは・・・書かない、というか書けない。これ書き上げるだけでも書きはじめから一年近く経っているし。最初は艦これつながりで海戦史を船の誕生から艦娘まで概観してみようというところから始めたんですが、まぁ近代以降が難易度高すぎて無理でした。ちなみに以前書いた記事「銀河英雄伝説再アニメ化ということで元ネタっぽい歴史上の戦争いくつか」の李舜臣と豊臣軍の海戦の模様はこの草稿からさくっと切り出したものでした。アジアの海戦史についてはまた別途まとめられそうな気はします。

参考書籍
・アティリオ・クカーリ、エンツォ・アンジェルッチ 編著「船の歴史事典 コンパクト版
・小林 幸雄 著「図説イングランド海軍の歴史
・ウィリアム・H・マクニール 著「戦争の世界史(上) (中公文庫)
・マイケル ハワード 著「ヨーロッパ史における戦争 (中公文庫)
・世界戦史研究会 編「海戦 (Truth In Fantasy 84)
・松村 劭 著「三千年の海戦史
・長谷川 岳男 樋脇 博敏 編著「古代ローマを知る事典
・ハリー・サイドボトム 著「ギリシャ・ローマの戦争 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
・川北 稔 編著「イギリス史 (世界各国史)
・竹田 いさみ 著「世界史をつくった海賊 (ちくま新書)
・君塚 直隆 著「近代ヨーロッパ国際政治史 (有斐閣コンパクト)
・ヘンリー・ケイメン 著「スペインの黄金時代 (ヨーロッパ史入門)
・ロイ アドキンズ 著「トラファルガル海戦物語〈上〉
・ロイ アドキンズ 著「トラファルガル海戦物語〈下〉
他、関連書籍、wikipediaの関連ページ等多数。

関連記事
1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史
「ジョージ王朝時代のイギリス」ジョルジュ・ミノワ 著
「民衆の大英帝国―近世イギリス社会とアメリカ移民 (岩波現代文庫)」川北 稔 著
「女海賊大全」より『アイルランドの海賊女王グレイス・オマリーの生涯』
「世界史をつくった海賊」竹田 いさみ 著
「ギリシャ・ローマの戦争 (〈1冊でわかる〉シリーズ)」ハリー・サイドボトム 著
人口動態からみた古代ローマ帝国の社会
銀河英雄伝説再アニメ化ということで元ネタっぽい歴史上の戦争いくつか
豊臣軍撤退後の朝鮮半島における明国軍駐留問題
十六~十七世紀、海を渡った日本人~倭寇、奴隷、傭兵、朱印船、キリシタン
「ナポレオン帝国 (ヨーロッパ史入門)」ジェフリー・エリス 著

スポンサーリンク
スポンサーリンク

フォローする

関連コンテンツ

スポンサーリンク
スポンサーリンク