ISILのカリフとモロッコ王国のカリフ

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モロッコの「カリフ」

シリア、イラク地域で勢力を急拡大しているISILの指導者アブー・バクル・アル=バグダディがカリフを自称しているが、実は現在モロッコ王国国王もカリフを称している。

モロッコ王国憲法 
第 19 条
国王は、アミール・アル=ムーミニーンであり、国民の最高の代表者であり、国民の統合の象徴であり、国家の持続と永続を保障する者である。国王は、イスラームの保護者であり、憲法の尊重のための監視人である。また国王は、公民、社会的諸団体および地域社会の権利と自由の守護者である。
国王は、国家の独立と王国の真正なる領土の保全とを保障する者である。

アミール・アル=ムーミニーン」がすなわちカリフである。これは1996年憲法で、現在は「アラブの春」の影響で発生した民主化運動によって2011年に改正された新憲法となっているが、『国王の人格は神聖であり、その聖性は侵されない。』(23条)から神聖が取り除かれて『国王の人格は不可侵』とされているだけで宗教的権威であるカリフと同義の「アミール・アル=ムーミニーン」の地位は引き続き保障されている。

「カリフ」と「アミール・アル=ムーミニーン(信徒たちの長)」

もう少し歴史的に説明すると、七世紀の正統カリフ時代に遡る。632年、預言者ムハンマドの死後、イスラーム共同体(ウンマ)はハリーファ(代理者:英語読みがカリフ)によって統治される。初代カリフのアブー・バクルは「ハリーファ・ラスール・アッラーフ(神の使徒の代理人)」を称し、第二代カリフ・ウマルは自身を「ハリーファ・ハリーファ・ラスール・アッラーフ(神の使徒の代理人の代理人)」および「アミール・アル=ムーミニーン(信徒たちの長)」を名乗った。第三代カリフ・ウスマーンが「ハリーファ・アッラー(神の代理人)」と称すると同時に、「アミール・アル=ムーミニーン(信徒たちの長)」を受け継ぎ、以後正統カリフ時代が終わってもウマイヤ朝、アッバース朝とカリフたちは「アミール・アル=ムーミニーン(信徒たちの長)」を名乗り、カリフと同義語として浸透する。歴代のカリフたちが外交文書で用いたのは「アミール・アル=ムーミニーン(信徒たちの長)」の方だったとされる。

『アミール・アルムーミニーン(信徒たちの長)
Amir al-Mu’minin
ムスリム政権の君主に対する称号の1つ。ハリーファ(カリフ)とほぼ同義で、ジハード(聖戦)の指揮官とウンマ(イスラーム共同体)の指導者を意味する。第2代ハリーファのウマル(在位634~644)がこの称号を最初に用いた。その後もハリーファの称号として用いられ、とくにアッバース朝(750~1258)のハリーファはこの称号によって呼ばれることが多かった。ただし、十二イマーム・シーア派は、初代イマームのアリー(在位656~661)に対してのみこの称号を用いる。』佐藤次高編「イスラームの歴史〈1〉イスラームの創始と展開 (宗教の世界史) 」付録用語解説P2より

モロッコ王とカリフ

モロッコ王のカリフ=「アミール・アル=ムーミニーン」称号の歴史は古い。

ウマイヤ朝によってモロッコも含め北アフリカ一帯にまで版図を広げたイスラーム勢力だったが、740年のベルベル人の反乱によってマグリブ(アフリカ北西部のアラブ地域)とマシュリク(エジプト以東のアラブ地域)とが分断されるとウマイヤ朝からアッバース朝への政権交代もあってマグリブに権力の空白が生じ、モロッコには第四代正統カリフ・アリーの子孫である「シャリーフ(ムハンマドの血統)」のイドリースによってイドリース朝(788~985)が建国、以後、幾度も王朝の交替を経ていくが、その過程でムハンマドの血統を引く様々な一族がモロッコを始め北アフリカ一帯に定住、脆弱な王権の権力基盤として台頭し、支配階級となっていく。シャリーフから王家を出したマリーン朝(1248~1465)はアッバース朝滅亡によってカリフが絶えた後、「アミール・アル=ムーミニーン」を称して、シャリーフの長として振る舞い、以後モロッコを支配した王朝サアド朝(1549~1659)、アラウィー朝(1659~現在)もそれに倣って「アミール・アル=ムーミニーン」を称した。

1659年、モロッコを統一したアラウィー朝初代国王ラシードは過去の王朝同様にシャリーフの家系出身で、その一族であるアラウィー家の支配が現在まで三百五十年余りに渡って続いている。途中十九世紀にはスペイン・フランスの植民地支配を受けたものの1956年に独立し、現在までずっとカリフ=「アミール・アル=ムーミニーン」を称している。といっても、アフリカ北西部マグレブの一番端っこ、大西洋に面した小国でアラブの中心とはかけ離れているから、外交的にも存在感はなかった。

オスマン帝国とカリフ

ところで同時代のカリフというとオスマン帝国の「スルタン・カリフ制」が思い浮かぶが、実際のところ、オスマン帝国スルタンがカリフを称したのは、1774年、ロシアとの間で結ばれたキュチュク・カイナルジ条約である。それまでオスマン皇帝はカリフというよりはマッカ・メディナの保護権を有し大陸をイスラーム法によって統治する「ハーディム・アル=ハラマイン(両聖都の守護者)」という、かつてサラディンも使った称号を用いていた。

同条約でロシアに対する領土割譲などと引き替えにカリフと称することが国際的に認められ、これを受けて、実は1517年にマムルーク朝最後のスルタンからカリフ位を継承していたとする主張を展開、これが十九世紀に広く受け入れられてスルタン・カリフ制として汎イスラーム主義の精神的支柱となり、一般的にオスマン皇帝がカリフと認識されるようになった。

現代のモロッコ王のカリフ号

このような由緒正しいモロッコのカリフだが、国際的にこの称号をアピールし始めたのは1980年代に入ってからのことだという。モロッコの君主は元々、宗教的な権威としてのカリフ「アミール・アル=ムーミニーン」の称号とは別に、軍指導者としての「スルタン」、政治的指導者としての「マリク」など複数の称号を有し使い分けていたが、1970年代から中東でイスラーム復興運動が活発化してくると、宗教的称号が政治性を帯びてくる。サウジアラビア国王は王を意味する「ジャラーラ・アル=マリク」からオスマン皇帝と同じ「ハーディム・アル=ハラマイン(両聖都の守護者)」へと称号を変更し、エジプトのサーダート大統領も「ライース・ムーミン(篤信の大統領)」を名乗るなど、世俗君主たちがこぞって自身の地位に宗教的意味を重ねあわせるようになる。当時のモロッコ国王ハサン2世も積極的に「アミール・アル=ムーミニーン」を前面に押し出した。

もしも、モロッコ国王がカリフの名の下にISILへのジハードを唱えたらどうなるのだろう、という想像をしてみたくもなるが、モロッコは基本的に中東に対しては和平外交を旨としているし、アフリカの端からシリアまで攻め上ることも出来ないし、そもそも農鉱業中心で失業率も高い(2012年9.0%)経済的に不安定な小国なためそんな国力も無い。また、民主化運動の余波もあってそんなことを言い出したら国民が黙っていないだろう。ただ、モロッコ憲法では全アフリカの統一が目標として掲げられていたりして、なかなかアグレッシブな国是ではある。あと、豆知識だが、モロッコはアメリカの独立を国際的に承認した最初の国家である。

ISILの「カリフ」

一方、ISILのカリフである。僕は、アラビア語は一切わからないのだけど、バグダディの演説動画で英語字幕を追いかけて行きながら、カリフ制のアナウンスと指導者の任命について述べているあたりで、確かに彼がイマームと言っているのが聞き取れる。

「イスラム国」バグダディ容疑者が動画で初登場 最高指導者カリフを名乗る【イラク情勢】

上記リンク先動画9:29~33あたり。

「カリフ」と「イマーム」

イマーム(先導者)」もまたカリフの同義語である。

「イマーム」は集団礼拝の際に礼拝を先導する者のことで、イスラーム共同体(ウンマ)の宗教的・政治的最高指導者に対して用いられ、スンナ派ではハリーファ(カリフ)を指す。また、イマームはシーア派では特に重要な意味を持つ。

もともと、正統カリフの継承をめぐるウマイヤ家のムアーウィヤとハーシム家のアリーの対立があり、アリーの正統カリフ即位に対してムアーウィヤが叛旗を翻して勝利し、ウマイヤ朝が成立(661年)するが、そのときアリーを支持していたアリー派(シーア・アリー)が、八世紀から十世紀にかけてウマイヤ朝・アッバース朝の支配に抵抗する中で宗派として形成されシーア派へと発展していった。ゆえに、イスラーム共同体の指導者であるイマームは最後の正統カリフであるアリーとその妻である預言者ムハンマドの娘ファーティマの間の血統しか認めない。ただし、イマーム位がアリーから誰に継承されたかで諸派に分かれる。

「マフディー(救世主)」信仰

イマームを巡る思想で特徴的なのはマフディー(救世主の意)信仰と呼ばれる救世主(メシア)思想である。イスラームもまたセム的一神教ゆえにキリスト教やユダヤ教同様救世主思想がある。ただクルアーンでは他の二宗教と違ってメシア信仰は重視されておらず、最後の審判の前に救世主として再臨するのはイエスであるとされている。しかし、イスラームなのだから救世主がイエスというのは確かに都合が悪い。そこで、シーア派の諸派の中から最後の審判の前に、かつて姿を消したイマーム(アリーだったり、その子の誰かだったりと宗派ごとに諸説あるが)がマフディーとして再臨し世界を救うという救世主思想が登場した。アッバース朝期までには後のスンニ派である多数派の間にもイエスに代わるマフディーによる救済の思想が広がり、シーア派、スンニ派問わず民衆レベルまでマフディー信仰が浸透していく。

このマフディー信仰は反政権運動として、あるいは王朝樹立の際の大義名分として次々と自称マフディーが登場して繰り返し使われることとなり、イスラーム史を動かしてきた重要な信仰である。シーア派諸派はマフディーの条件としてイマームの血統に重きを置くが、民衆レベルになると必ずしもそうとはいえず、行動を起こす勇気や蜂起という行為そのものがマフディーとして支持される要因ともなる。

救世主としてのISILカリフ

ISILのバグダディがカリフとしてイマームという言葉を使っているのは、このような民衆レベルに根付くマフディー(救世主)信仰を考慮して、イマームという語からマフディーを想起させ、自身を救世主と重ねあわせる効果を狙ったものではないかと思う。アサド親子の独裁からの苛烈な内戦下にあるシリアや、フセイン独裁から米国の侵攻と諸勢力の内戦を経てマリキー政権のスンニ派排除・強権的政治を経験したイラクでISILが勢力を拡大しているのも、彼らのサラフィー主義・ジハード主義が草の根レベルでの救世主思想を喚起しているからだと思う。

ISILについて、秩序の破壊と暴力、極端な復古主義が、救世的なある種の世直し運動として受け取られている側面を見過ごすことはできない。混沌と殺戮の世の中で熱望された救済の手法がさらなる破壊と暴力の応酬であるという点で悲劇的であるが、まさにその連鎖が近代以降のイスラームの歴史でもあった。

カリフ制再興が願いなのであればモロッコに行けばいい。経済的に不安定で社会の格差も大きく(貧困層は500万人とも言われる)国力も弱く自由度も低い(たびたびイスラーム主義者の弾圧が行われる)が、ムハンマドの血を引くカリフが君臨する独裁的ではあるがイスラーム法に基づいた立憲君主社会がそこにある。にもかかわらずISILに行くのは、そこにはカリフ制再興ではない、戦いなのか破壊なのか救済なのかはわからないが、別の望みがあり、それをカリフ制再興という大義名分が隠してくれているからではないか。

2015年2月3日追記
イスラーム国の表記をすべてISILに置き換えました。

参考書籍・リンク
・佐藤 次高 編「イスラームの歴史〈1〉イスラームの創始と展開 (宗教の世界史)
・佐藤 次高 編「西アジア史〈1〉アラブ (新版 世界各国史)
・菊地 達也 著「イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史 (講談社選書メチエ)
・私市 正年 他編著「モロッコを知るための65章 エリア・スタディーズ
・松本 弘 編著「現代アラブを知るための56章 (エリア・スタディーズ120)
モロッコ王国憲法
モロッコ:国王による憲法改正案の発表
「イスラム国」バグダディ容疑者が動画で初登場 最高指導者カリフを名乗る【イラク情勢】
モロッコ王国 | 外務省

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